03-05.緒戦(1)
黒森の邸から絢人の家までは歩いて10分もかからない、比較的ご近所と言える距離だ。だが学校や港のあたりに比べるとふたりの家の辺りは勾配がややキツくなるので、行きはともかく登り坂になる帰りは少し余分に時間がかかってしまう。
だから行きも帰りも手ぶらの紗矢やザラに比べると、帰りは重いザックを背負っている絢人は邸へ戻るのが少しだけ大変になる。まあ、剣道で鍛えた身体はその程度ではへこたれないが。
不意にザラが足を止めた。ほぼ同時に紗矢も立ち止まる。
「……ん?どうしたんだ?」
絢人が不思議そうな顔で紗矢に問いかける。
「……気付かない?」
「え?」
「いるわよ」
「……?なにが?」
「なにが、じゃないでしょ!」
全く気付かない様子の絢人に、紗矢は少しだけイライラしてしまう。
「もう戦いは始まってる、ってこと!」
それだけ言って紗矢は絢人を庇うように一歩前に出ると、絢人に手で合図して一歩下がらせる。そしてザラが絢人の襟首を掴んで数歩下がらせたのを確認してから、前方の小さな公園のブナの木の方に向かって声をかけた。
「隠れたってムダよ。出てきなさい」
「いやあ、さすが黒森のお嬢さん。僕は完璧に気配を消してるつもりだったんだけどなあ。なんでバレたんだろ?」
穏やかな春の朝の空気に全くそぐわない、場違いなほど軽薄な声がした。ブナの木の前に、ひとりの長身の男性が立っている。いつからそこにいたのか、絢人には全く分からなかった。
サラサラのブロンドの長髪を風になびかせ、笑うと歯が陽の光を反射してキラリと光る。その男は黒のモーニングの上下を着て、手には何故か真っ赤な薔薇の花束を持っていた。
日曜朝のことで、周囲には他に誰も見当たらず、車も走っていない。
「はじめましてお嬢さん。僕はハーヴィー・シューメイカー。今回の魔道戦争でご一緒させてもらってる、韻律魔術師です。以後お見知り置きを」
男はそう言って爽やかに笑う。
次の瞬間。男は紗矢の目の前に立っていた。
「!」
そして紗矢が何か反応するより早く、彼は恭しく跪くと薔薇の花束を紗矢に差し出した。
「な……なんのつもりかしら?」
呆気に取られつつ、一応紗矢は聞いてみる。普通ならここまで完璧に先手を取られることなど有り得ないが、この男からは全く殺意も戦闘の意思も感じられず、そのため対応を図りかねて動けなかったのだ。
「お気に召さなかったかな?お近づきの印に、と思ったんだけど」
「…………は?」
紗矢は呆気にとられるばかりである。これから殺し合いをする魔道戦争の参戦者同士だというのに、この男は一体何を考えているのか全く分からない。その得体の知れなさに、紗矢の肌に鳥肌が立つ。
「いやあ、魔道戦争自体がそうそうあることではないから参戦するだけでも魔術師冥利に尽きるってものなのに、その上こんな絶世の美女とご一緒できるなんて、僕は本当に運がいい。
いや、これはきっと運命なんだ。そうだろ、君もそう思わないかい?」
「…………はぁ?」
ハーヴィーと名乗った男が突然訳の分からない事を言い始め、紗矢はますます呆気にとられる。それに気がつかないのか、彼は自分の左手を胸に添え、右手の花束を突き出してくる。
「さあ、この花束を、僕の愛を受け取ってくれないか。そして僕と、明るい幸せな未来をともに歩んでいこう」
紗矢は唐突に鳥肌の正体に気付いた。この男はあろうことか、戦闘ではなくナンパを仕掛けてきたのだ。
これまで学校や街中で幾度となくナンパや告白を受けてきた紗矢ではあったが、ここまでキザで白々しい、ある意味でおぞましさを感じるものは初めてだった。あの時公園で声を聞いた時から違和感を持っていたが、まさかここまでぶっ飛んだやつだったとは。
紗矢は返事の代わりに口の中で素早く詠唱し、[投射]を発動して無言のまま男に叩きつけた。だが光の矢は花束を散らしただけで、男の姿はすでにどこにもない。
と、紗矢が身体を反転させてその場から飛び退く。たった今まで紗矢が立っていた場所、ちょうど紗矢の真後ろの位置に、男は立っていた。
「おや、照れているのかい?そんなに恥ずかしがらなくていいんだよ?
⸺さあ、僕の腕の中へおいで、マイハニー」
「誰がマイハニーよ!」
紗矢の全身が総毛立つ。生理的に受け付けないというのはこういう事か、と紗矢は身をもって理解した。
アルフレートも普段から似たような感じだが、彼の場合は紗矢の気持ちを完全に無視して話を進める事など有り得ないし、だから当然これほどの嫌悪感を抱くこともなかった。そもそも生まれてこの方ずっと一緒にいたのに、彼は紗矢が成人するまでは告白なんて一度もして来たことがなかったのだ。
それなのにこいつはどうだ。初対面だというのに紗矢の気持ちを確かめようともせず一方的に愛とやらを押し付けてくるだけではないか。そんな勘違い野郎に愛を囁かれるなんて悪夢でしか有り得ない。
「……まずいな」
十数歩離れた場所から眺めていたザラがぽつりと呟く。
「えっ?」
そのザラに引っ張られて同じ場所に移動していた絢人が、ザラの真意を図りかねて声を漏らす。
「紗矢のやつ、すっかりペースを乱されて冷静さを失っているな」
「いやあ、無理もないと思いますけど……」
そりゃそうだろ、としか絢人は思わない。男の絢人が見たって気持ち悪いのだから。
確かに男は長身でスラッとした細身で顔立ちも整っていて、黙って立っていれば女性にはモテそうな感じではあったが、どう見ても口を開けば残念なタイプにしか見えなかった。
おそらく、この男は普段からああして誰彼かまわず告白して回ってはフられ続けているのだろう。にも関わらず全くめげた様子がないというのは驚嘆に値するが、だからといってそれが彼のナンパにプラスになっているとは到底思えなかった。
「ところで、あいつ外国人ですよね?」
「見たところイギリス人だな。それがどうした?」
「いや……なんで日本語喋ってるのかな、って」
「ああ、そのことか。お前は今、私の[翻言]の効果範囲に入っているからな。自動通訳されているはずだ」
「そうなんスか。魔術って便利ですね」
絢人とザラが緊張感のない会話をしている間にも、ハーヴィーと名乗った男と紗矢の戦いは続いている。
いやこれを戦いと呼んでいいかは議論の余地があるかも知れないが。
「私はね、あんたみたいな軽薄な勘違い野郎が一番嫌いなの!消し炭にされたくなかったら今すぐ消えなさい!」
「いいね、その怒った顔もキュートだよハニー♪」
「だからハニーじゃないって言ってるでしょうが!」
「照れなくていいってば」
「うるさい!」
怒りに任せて紗矢が[投射]を連続して放つ。さらに男が躱して逃げるであろう位置に八重刃雉を[召喚]しようとしたところで、ザラが動いた。
ちょうど紗矢と絢人の中間地点までダッシュすると素早く[遮界]を発動し、同時に紗矢に[禁足]をかける。紗矢はザラの遮界に取り込まれ、八重刃雉の発動も抑えられ、一瞬だけ動きが止まる。
そのまま素早く紗矢の横まで移動したザラが、紗矢の頬をはたいた。
「少しは冷静にならんか。全く、見ていられんぞ」
「あっ……」
はたかれた頬を押さえて、紗矢がザラの方を振り向く。
「敵のペースに乱されて、[遮界]も[結界]も開かずに魔術を乱発するとはどういうつもりだ?どこで誰が見ているかも分からんというのに、八重刃雉まで出そうとしおってからに」
「あ……その、ごめんなさい……」
「そもそも気付かんのか?あの態度自体がヤツの魔術だということに」
「…………えっ?」
「韻律魔術には音で相手の心を操る[調律]という術式がある。あの軽薄な言葉の全てがそうだと考えれば、お前は完全に敵の術中に嵌まっていたことになるのだぞ」
言われて初めて気付いて、紗矢はゾッとする。一目見た時から魔術師としては大した脅威でもないと見切って、知らず知らずのうちに敵を侮ってしまっていたことに、指摘されるまで気付かなかったのだ。




