【幕裏-絢人】03.天嶺の店(1)
絢人は家を出るとバス停に向かった。さすがに新町の駅前まで行くとなると、歩いていくよりバスを使う方が楽だし早い。幸い、本町を走るバスは本数も多く、目抜き通りを駅前や新町に向かう路線の他に本町内を周回する路線もあって、乗客もそれなりに多いから今のところは廃止の心配もなさそうだった。
目抜き通りの最寄りのバス停でしばらく待てばバスがやってきて、絢人を乗せて駅前に向かって走り出す。目抜き通りを下り、大橋を渡り、新町の市街地を抜けて各停留所で乗客を拾いながら、30分あまりでバスは駅前までたどり着いた。歩いてくると1時間は下らない距離だ。
駅前で絢人はバスを降り、道なりに駅舎を迂回し跨道橋を渡って駅裏地区に回り、中心街で一番高いビルの横を抜けて飲み屋街の方へと向かう。
小さな緑地公園を突っ切ると、そこは飲み屋街の裏通りに当たる通りだ。バイト先のカフェはここの一番隅の目立たない場所に、ひっそりと店を構えていた。
カラン、カラン。
表の入り口の扉を押し開けると、ドアベルが乾いた音を立てる。普段ならこの時間は施錠されているはずだが、今日は絢人のために開けておいてくれていたのだろう。
「お、来たか坊主」
カウンターの客席に座って煙草をふかしていた店長が、絢人に気付いて手を挙げた。
「坊主じゃなくて絢人です。
⸺天嶺さん、またタバコ替えたんスか?」
「3ヶ月ぶりに会った第一声がそれとはね。君も相変わらずだなあ」
絢人のいつものツッコミに、店長は茜色の瞳を細めて皮肉を返してきた。
店長、茜崎天嶺はスラリと背の高い女の人だった。腰の下まで伸びた長髪は瞳と同じ鮮やかな茜色で、それが何よりもよく目立つ。
長身なだけでなくメリハリの効いた見事なプロポーションは、何も知らなければファッションモデルだと言われても納得しそうで、少なくともこんな場末のカフェの店長だなどと言われても信じる人などいないだろう。絢人だって最初に駅前で声をかけられた時、モデル事務所のスカウトかと思ったほどである。
瞳と髪の色については絢人はいちいちツッコまない。人間の髪や瞳がそんな色をしているはずがないが、髪は染めればいいし瞳は多分カラーコンタクトだろう。顔立ちも名前も日本人っぽいし日本語を喋ってるから、多分彼女は日本人だ。ていうかおそらく、色は名字に合わせているのだろう。
彼女の服装はカフェの店長らしく、白と黒を基調にした制服に蝶ネクタイを結び、黒い前掛けを腰に巻いているが、絢人はこの人が厨房でも店内でも働いているのを見たことがない。だいたいいつでもカウンター席に座って煙草をふかしながら、常連客とおしゃべりしているだけだ。注文される飲み物も軽食も、基本的には絢人ともうひとりで分担して作っていた。
呼び方に関しては、本人から名字呼びも店長呼びも禁止されたので名前で呼んでいる。なんでも双子の妹がいるそうで、名字呼びされると妹と見分けがつかないのだそうだ。そんなこと言ってもその妹はこの場に居ないんだからいいじゃん、とも思うし、歳上の上司に失礼じゃないかとも思うのだが、本人がそう希望するのだからと割り切っている。
「絢人。」
「あ、ミライさん久しぶり」
そのもうひとり、寧々が昔見たという店員が彼女である。
絢人より小柄で、天嶺よりは短いが背の中ほどまである長いくすんだ黒髪に、生気の薄い真っ白な肌が際立つ。体型は非常に華奢で触れただけでも折れそうだが、この手足で力仕事までこなすから意外と丈夫な人だ。
名前は知らない。本人が名乗った事もないが、天嶺が彼女を『ミライ』と呼ぶので絢人もそれに倣っている。
彼女の一番の特徴は、無口で無表情なところ。笑顔などまず見せたことはなく、それどころか怒った顔も泣き顔も見たことがない。重い荷物を持っても、客にセクハラされても全くと言っていいほど表情が変わらないし文句も言わない。まるで機械のように決められた行動と返答だけしかしないのが彼女であった。
彼女は名前に限らず自分のことを何ひとつ語らないので、年齢も出身地も経歴も、絢人は何も知らない。見た目が少し歳上に見えるから絢人は敬語で接しているが、それさえも合っているか分からない。
ただ彼女は、絢人にだけはその名を呼ぶ。天嶺にすら名前を呼ばない彼女が、何故か彼の名だけは呼ぶのだ。そして決まって胸の前で指を組んで、わずかに前屈みで、食い入るように見つめてくる。
何らかの感情を向けられているのが分かるから絢人は何とかそれに応えたかったが、彼女が何を思っているのかサッパリ分からないので応えられないでいる。ただその仕草だけはどこか既視感があったが、それさえも何故か思い出せない。誰かが同じ仕草をしていたはずなのだが。
「で、今日は大掃除でいいんですよね?」
「うん。ここ2、3日のうちに開けるから、最低限客を入れられるようにしてくれればいいよ」
「了解ッス。俺制服置いたままですけど、ありますよね?」
「ロッカーにあるよ。洗濯も済んでるから着替えておいで」
「いや洗濯っていうかクリーニング出しただけでしょ?」
「そんな当たり前のことをいちいち確認するんじゃないよ」
絢人は厨房の脇のロッカールームに入って自分のロッカーを開く。埃除けのビニールに包まれた制服一式を取り出し、ビニールを外して上着を脱いで、Tシャツの上から制服のシャツを着て黒いベストを身に付けた。ズボンを制服の黒いスラックスに履き替えると、見た目だけは一丁前のカフェボーイの出来上がりだ。




