01-03.翻弄
この日は土曜日だったため、授業は午前中だけで終わる。放課になり、紗矢は手早く荷物をまとめて足早に昇降口へと急いだ。途中、教室の窓越しに普通コース教室の中に絢人がまだいるのを確認して、念のために魔力感知を試みる。だがもうその時には、霧散してしまったのか魔力の残滓は感知出来なかった。ならば彼に関しては安心だろう。
紗矢は昇降口を出て校門へと向かうが、その校門の方からただならぬ気配が漂ってきて思わず足を止めてしまう。それは忘れようもない、わずか10日ほど前に嫌と言うほど味わったばかりの、暗黒の魔力であった。
(なぜ?あれはもう終わった事のはずでは?)
内心に焦りとともに恐怖が蘇る。そう言えばインターネットで流布しているという黒魔術のテキスト、解決したら報告をもらえるように本家に要望してはいるが、まだその報告は届いていない。ということはまた誰かが使ってしまったのか。もしそうならば、再び紗矢が対処しなければならない。
そんな事を思いながら紗矢は校門を見やる。
そこに立っていたのはひとりの魔術師だった。身にはゆったりとした黒いローブのような長衣を着ていて、顔は目深に被ったフードで覆い隠されており、年齢も性別も定かではない。体格は細くも太くもないが、紗矢よりやや背が高いだろうか。
校門を通って帰って行く生徒たちは、まるでそこに誰も居ないかのように、気にする素振りもなくスルーしていく。おそらく本当に見えていないのだろう。
『黒森……紗矢、に間違いないな?』
紗矢の聞き慣れたドイツ方言、低地アレマン語のごく低い呟き。その一言だけで、相手が紗矢のことをあらかじめ調べ上げていると分かる。
これは心してかからないと、10日前の理の時とはわけが違う。
『……だったら、どうだというのかしら?』
最大限の警戒を心に残しつつ、紗矢は同じく低地アレマン語で返答する。
その一言一句にさえ魅了や呪詛などの魔力が込められているかも知れず、本来は言葉のやり取りさえするべきではなかったが、まずは敵の正体を可能な限り探っておきたかった。
幸いというか、10日前の一件があったおかげで、恐怖心はあるもののうろたえたり取り乱したりする事はない。あの件以降、紗矢の心の内にはそれと意識しなくとも、今後またこういう事件が起こるかも知れない、その時には自分が矢面に立たねばならないという心構えができつつあった。
⸺正しく恐れ、それを乗り越えていくことこそが真の強さだ⸺
あの時ザラが教えてくれたことは、しっかりと紗矢の中に根付きつつあったのだ。
『クク。今日のところは挨拶だけだ。貴様も、まさか無辜の級友たちを巻き込みたくはないだろうからな』
『あら、ずいぶんとお優しいのね。それで、なんの御用?』
『なに、すぐに分かる。そう焦らぬでもよかろう』
魔術師はそれだけ言って、クク、とまた嗤う。
どうも言質を与えるつもりはないようだ。だが、紗矢の方はそういうわけにはいかない。敵の目的はなにか、何のためにわざわざ姿を現したのか、できうる限りの情報を掴まなければならない。
『貴方、姿を見せておいてこのまま逃げられると思って?』
一応はハッタリのつもりである。御しやすいと思われては舐められる事にもなりかねない。経験が浅いとはいえ、その程度の駆け引きは出来るつもりであった。
『いいのか、死ぬぞ?』
すぐ耳の横で囁きが聞こえた。
頬が触れ合うほど至近に、ヤツがいた。
「~~~~~!」
怖気を感じて咄嗟に飛び退き距離を取ろうとするが、その時にはもう腕を掴まれている。
今の二手で、紗矢は二度死んだ。相対の瞬間と、今腕を掴まれた時。いくら経験が浅いとはいえその程度は紗矢にも分かる。そう、紗矢は初手から間違っていたのだ。本来なら視界に入る前から[感知]の術式で周囲を警戒して、事前に防護結界を幾重にも張ってから相対すべきだったのだ。
それなのに彼女は帰宅することに意識が向いて警戒が疎かになってしまっており、相対してからもまず話しかけられたために何の魔術も発動させていなかったのだ。
魔術師同士は魔術で語らうもの。言葉で語らおうとした紗矢はやはり、魔術師としては未熟であった。
と、魔術師が紗矢の腕を離す。その瞬間に紗矢は十数歩の距離を飛び退いて態勢を立て直した。だが、すでに敵の術中に嵌まった後である。
これからどうリカバリーするか、瞬時の判断がつきかねる。あるいはすでに手遅れであるかも知れない。その可能性は大いにあった。
首筋にじっとりと冷や汗が滲む。「せめて初陣は魔術師相手に」など、とんでもない思い上がりであった。どんな素質も才能も、経験の前には全くの無力だと思い知らされるばかりだった。
『クク、そう脅えずともよい。挨拶だけだと言ったろう。今はまだ何もしてはおらんから心配するな。
だが次に会ったときはこの限りではない。せいぜい、首を洗って待っているがいい』
『この、舐めるんじゃ⸺』
「紗矢先輩?」
急に後ろから声をかけられて紗矢が一瞬硬直する。この声は太刀洗絢人の妹、柚月だ。
まずい、そういえばまだ[遮界]も何も発動していないから周りからは自分の姿が見えているはずだ。しかも今声をかけてきた彼女は魔術師の素質を持っている。ヤツに目を付けられたら大変なことになりかねない。
思わず振り返る。彼女はきょとんとした顔で怪訝そうにこちらを見ている。一瞬とはいえ意識が逸らされた事に気付いて再び振り返ると、その時にはもう魔術師の姿はどこにも見当たらなかった。
「どうしたんですか?突然何もない所から飛び退いたりして」
「……なんでもないわ」
「何でもないって、先輩ずいぶん顔色悪いですよ?汗もすごいですし、どこか具合でも悪いんじゃないですか?」
言われて気付けば、制服のブラウスが肌に張り付くほどびっしょりと汗をかいていた。耳元で囁かれた言葉が呪詛のように脳裏に焼き付いている。
念のために魔力感知を試みたが、すでに残滓すら残っていなかった。
「……そうね、少し休んだ方がいいかも知れないわね」
「保健室、行きますか?行くなら私付き添いますよ?」
柚月は心配そうに見つめている。ひとまず危険は去ったし、彼女に余計な心配をかけさせるのもあまり良くはないだろう。
「大丈夫。少し休めばきっと良くなるから、心配しなくてもいいわ」
「そう、ですか……」
彼女はまだ心配そうだったが、あまり食い下がっても失礼になってはいけないと思ったのか、それ以上は何も言って来なかった。
「心配してくれてありがとう。でも、本当に何でもないのよ。ただ少し驚いただけ」
疲労と無力感が顔に出ているのを自覚しつつ、それでも紗矢は無理に笑顔を作って柚月を安心させようと試みる。ああ、いっそこの子がちゃんとした魔術師であったなら本当に気が楽だったのに。
「私には何もないように見えたんですけど……。
⸺あ、もしかして先輩、見えたらいけないものが見えたりするんですか?」
「えっ?」
今度は紗矢がきょとんとする番だった。紗矢は10日前の一件でオカルト好きだと彼女に勘違いされたままなのを、まだ知らない。
「あっ、えっと、何でもないです……」
意外な紗矢の反応に、やや頬を染めながら柚月が前言を取り消す。どうも聞いてはいけないと思い込んだようだ。
「えと、じゃあ、私お先に失礼しますね!また月曜日に!」
「え、ええ。またね」
よく理解しないまま、紗矢は走り去る彼女を見送るしかできなかった。
初めての敵魔術師との対決。
そして天才少女は、無様に敗北したのでした。




