00-07.アルフレート(1)
「さて、では私は少し出掛けてくる」
ひとしきり泣いて、ようやく落ち着いた紗矢から身を離すと、ザラが突然言い出した。
「えっ…。それは構わないけれど、どこへ行くつもりなの?」
「プライベートだ。詮索は無用」
そう言われてしまっては、これ以上紗矢には聞くことが出来ない。
黒森本家のたったひとりのメイドという立場上、彼女には基本的に休暇というものが存在しない。だから彼女が休みを申請した時には直ちにそれを与えると、契約上は取り決めてあった。
だけどこのタイミングで、いきなり?
「心配するな。夕食までには戻る」
「そう。では行ってらっしゃい。
…『気をつけて』は要らないわよね?」
「無論だ。私を誰だと思っている?」
ふっと不敵に笑って、それで彼女は自室に戻っていった。
しばらくして外のガレージからバイクの重厚なエンジン音が聞こえてきたかと思うと、すぐにそれが遠ざかっていった。
紗矢がリビングと間続きのダイニングの大きな振り子時計を見ると、まだ夕方の4時前だった。夕食まで、つまり6時までには戻るつもりなのだろうが、そんな短時間で一体どんな用事が済ませられるのか、紗矢には分からなかった。
ザラが出掛けてしまったので、紗矢にはそれ以上やることがなくなってしまった。ザラがいてくれるのなら今夜にでも行動を起こせたのだが、出掛けてしまった以上は本格的に動くのは明日以降ということになる。
とはいえ基本的な方針はすでに決まったし、焦ることもないのだろう。もしも焦る必要があるのなら、ザラはきっとすぐに動いているはずだ。
と、そこまで考えて、もしかするとザラは何かの確認のためにすでに独りで動き始めたのかも知れない、と紗矢は気付く。もし紗矢に黙って調査を開始したのなら、おそらくそれは新米魔術師がいては足手まといになるということなのだろう。直接言わなかったのは自分を気遣ってくれたのか、それともただ面倒くさかっただけなのか。
…ザラの性格から考えればきっと後者よね。
そう考えて紗矢はため息をつく。できればザラの足手まといにならないようにしたいと思ったが、経験不足なのはどうしようもない。ならばせめて、彼女のやり方を見て学ぶしかない。
とりあえず、シャワーでも浴びてくることにしよう。こんなに汗をかいたのも久しぶりだし、そうと気付けば肌のべとつきも臭いも気になってくる。それに今泣いたばかりで顔もひどいことになっているはずだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
シャワーを浴びて着替えを済ませたあとで、ひとつやるべき事を思い立って、紗矢は父の書斎から何冊か魔術書を持ち出すと、それを持って地下へと降りていく。黒森邸には地下室がいくつかあり、そのうちの一室は黒森本家の人間、つまり紗矢と総持以外は誰も入れないようにしてある。
その部屋は魔術工房と呼ばれる部屋であり、そこは魔術師が魔術を行使したり、自己の魔術に関わる全てを隠しておくための場所である。だからその部屋を見られるというのは魔術師としての全てを暴かれるに等しく、同族とはいえ別の分家の人間であるザラには決して見せる事はない。
もしもザラに工房を見せるような事があるとしたら、それは黒森家がヴァイスヴァルト家の傘下に降ることを意味していた。
この魔術工房は本来は黒森本家当主の専用で、現在は総持の工房である。つまりこの部屋には黒森一族五百年分の魔術的遺産が全て詰まっていた。魔術師たちはそうやって過去から未来へと、一族単位で知識と技術の全てを継承していくのだ。
紗矢はまだ自分専用の工房を設けてはいなかったが、順当に黒森の当主を継ぐことになれば彼女はこの魔術工房をも相続することになる。だからこの邸にいる限りは自分用の工房は設けなくてもよいのだった。
ついでに言えば隣の部屋にはザラが暫定的な魔術工房を構築していて、そちらには紗矢も総持も入ることができない。ザラはヴァイスヴァルトの当主ではないからヴァイスヴァルト家の魔術工房が使えず、そのため自分専用の工房を設ける必要があるのだ。
紗矢は魔術書を手に工房に入り、厳重に魔術で施錠する。備えつけられた作業台に魔術書を置き、そのうちの一冊を手にとって開く。それから床一面に描かれた魔術陣に向かって右手をかざすと、魔術書に書かれた詠唱の文言を読み上げる。紗矢の右上半身に刻まれた霊痕が反応して赤く光り、次いで魔術陣が鈍く光る。
その光が浮き上がり、収束し、紗矢の目の前で次第にまとまって形をなしてゆく。それはゆるやかに輪郭を形成していき、人の形をした光となる。
プンッ、と音がして、接続が完了した。
『サーヤ!どうしたんだいいきなり[通信]なんか寄越して!』
いきなり聞こえてきたドイツ語に紗矢は面食らう。面食らうが、アイツならいち早く察知して自分から出しゃばってきても何の不思議もない。
目の前の光はくっきりとした輪郭を形成し、今やひとりの若い男性の姿になっていた。紗矢が見上げるほどの長身でブロンドの長髪をなびかせた、スーツ姿の見事なイケメンだ。年の頃は二十代の半ばほどであろうか。
それがあたかも紗矢の目の前にいるかのように、動いて喋っている。
「お久しぶり、アル。確認するまでもなく元気そうね。
おかげで呼び出してもらう手間が省けたわ。でも、本家当主が自ら応答するのはさすがにどうかと思うのだけれど?」
『何言ってるんだい、サーヤ。君からのせっかくの通信を僕が待たせたりするものか』
「…言っておくけど普通は、誰が通信を入れてきたのかなんて接続するまで解らないのだけれどね?」
紗矢が魔術を用いて行ったのはシュヴァルツヴァルト一族の本拠地、通称“シュヴァルツヴァルト城”と呼ばれる広大な邸に直通する魔術通信だ。
このチャンネルを使えるのはシュヴァルツヴァルト本家の人間と分家の当主筋だけなので発信主はある程度絞れるものの、実際に繋がってみるまでは誰からの通信か普通は分からないはずだ。それをこの変態は、霊力の特徴だけで相手が紗矢だと見抜いて、応対に出るはずの魔術メイドを差し置いて自分で通信を受けたのだ。
そんな芸当が出来るのは“始祖の再来”とまで謳われる掛け値なしの天才、現当主アルフレートぐらいなものだ。まさしく変態と呼んで差し支えないほどの天賦の才能だった。
『で、どうしたんだい?
ようやく求婚を受けてくれる気になったのかな?』
「悪いけど、あなたの嫁になるくらいなら死んだ方がマシだわ」




