00-04.三バカ
美郷は教室に帰ってしまったが、腕時計を確認すると予鈴までまだ少しある。紗矢は少し逡巡したが、予鈴が鳴る前に花を摘みに行っておこうと思い立った。本来の用途はもちろんだが、今自分がどんな顔でいるのか、確認したいと考えたのだ。
どうも今日は何だか気が乗らない。紗矢だって人の子なのだからそういう日があるのも当然だったが、人前ではいつ何時でも完璧を目指している彼女としては、一瞬といえども級友たちに隙は見せたくなかった。
教室を出て、階段脇のトイレに向かう。個室に入って用を足し、便座に座ったまま少し呼吸を整える。
気が乱れているのは自分が未熟なせいだ。一般人との人間関係など所詮は一時の夢でしかないのに、そんなものに心を乱されてどうするの、私。
気を落ち着かせたあと、彼女は個室を出て手洗い場の鏡の前に立つ。
いくつかある流しの前では、何人かの女子生徒が化粧を直したり髪型をチェックしたりと身だしなみに余念がない。今日は新入生の入学式で二年生も部分的に参加するので、新入生にだらしない姿を見られるわけにはいかないのだ。
化粧は本来は校則で禁止されていたが、年頃の女子に化粧をするなと言う方が無理な話である。なので若い女性教諭を中心に擁護論が根強くあって、人目に付かないトイレの鏡の前でなら事実上黙認されていた。
紗矢は空いている隅の流しの前に立って鏡を見る。いつも通りの完璧な自分、ただ少し笑顔が足りないか。いやこれはこれで凛としていて見た目には問題ないのかも知れない。
だが紗矢には、どこか何かが足らないように感じた。そう感じるのなら完璧ではない。少なくとも自分の中では。
隣の流しを使っていた女子生徒が紗矢に気付いて怖じ気たように身じろぎをするが、紗矢はそれに気付きもしない。その子は手早く化粧を済ませると、やや慌ただしく手元の化粧道具を片付けると逃げるようにその場を離れていく。
実際のところ、他人の目には紗矢はいつも通り完璧だった。あまり笑わないところも含めて、高嶺の花と言うに相応しい圧倒的なオーラがその身を色濃く包んでいた。隣の彼女もそれに当てられ、紗矢の足元にも及ばないのに必死で外見を取り繕う自分が恥ずかしくなったのだ。
だがそういうものは得てして本人には分からないものだ。だから紗矢自身が完璧ではないと感じても同級生たちからすれば十二分に完璧なのだった。
しばらく鏡の前に立ち尽くしていたが、紗矢は結局化粧直しも何もせず、手だけ洗い軽く香水を振ってトイレを出ることにした。何かが足らない、それは間違いないのだが、何をどうすればそれが埋まって完璧な真円になるのか、彼女は結局見つけられなかったのだ。
分からないのなら、今考えても仕方ない。そんな事で時間を浪費するのも美しくないし、分からないのは他に判断材料があって、まだそれを得ていないせいなのだろうと考えた。
トイレを出る際に流しの順番待ちをしていた子たちの「紗矢ちゃん、ホントいつ見ても綺麗…」「あんなのと同級生とかマジ嫌になる…」などというかすかな呟きが耳に届く。普通なら聞こえない距離と声量だが、魔術で感覚強化しているとそういうのも拾ってしまうので良し悪しである。
だが、羨望と嫉妬の声は紗矢自身を満足させるもので、周りからそう見られているのなら少なくとも外見は完璧に繕えているだろう、と確認できただけでも収穫と言えた。
紗矢の所属する国際交流コースは2クラスあり、教室棟の一番奥にA組とB組とが並んでいる。その隣に普通コースの一組の教室があり、それから階段とトイレ、そして普通コース二組、三組と教室が並ぶ。普通コースは6クラスあり、その向こうの棟の端には反対側のトイレと階段がある。
教室棟校舎がこういう造りになっているのは、将来的に国際交流コースの定員増を見越しているためだ。そうなった場合、今は普通コース一組の教室になっている場所が国際交流コースC組になるのだろう。
つまり紗矢がトイレを出て自分の教室に戻るまでに、普通コースの教室の前を通ることになる。その普通コース1組の前の廊下で、先ほどまでいなかった数人の男子生徒が騒いでいるのに気付く。
紗矢が思わず足を止めたのは、その騒いでいる男子生徒の中に太刀洗絢人がいたからだ。
「お前もホントひでえな!友達だろ俺達!?」
「少なくとも俺は、お前らと友達になった覚えはない」
「おおおい絢人!あんな事言わせてていいのかよ!?」
「いいからさっさと教室に入れ。もう本鈴が鳴るぞ」
「うるせえばーかばーか!」
涙目で悪態をついている小柄な男子は確か戸畑とかいう生徒だ。彼はいつも騒々しくて、常にどこかで何か騒ぎを起こしている印象がある。教室の窓から上半身だけ乗り出しているのは黒木くんだろう。普通コースの中では成績のいい生徒だが、それ以外の評判は惨憺たるものだ。太刀洗くんと戸畑くんの横に立っている大柄な生徒は稲築と言っただろうか。彼は女子たちから蛇蝎のごとく嫌われているひとりで、もちろん紗矢も例外ではない。
本当、太刀洗くんはなぜ彼らと親しくしているのだろう。そんな事をしても彼にメリットがあるとはとても思えない。彼を除く3人は校内でも問題児として悪名を馳せている子たちで、そんな人間を友人にしていては自分の評判をも落とすだけなのに。
そう考えつつ、紗矢にはその答えも察しがついている。彼は誰にでも優しいから、相手がどんな人間だろうとその良いところを見つけ出して評価してやれるのだ。この3人だけでなく、小石原という学校一番の問題児でさえ彼は友達付き合いをしているという。先生たちですら敬遠するほどの問題児でさえ見限らないのだから、彼は本当にお人好しという他はなかった。
ああいう手合いにはなるべく近付きたくないのだが、紗矢が教室に戻るためには彼らの横をすり抜ける必要があった。だが戸畑は捕まえようとする絢人の手をすり抜けて走り回っており、このまま待っていても教室には入りそうにない。そもそもトイレを出るときに予鈴が鳴ったのが聞こえていたので、悠長に待つ時間もなさそうだ。
なら仕方ない。何食わぬ顔をして通り過ぎれば済むだけだ。そう考えて紗矢は教室に向かって再び歩き出す。何も意識することはない。ただ男子生徒の側を通るだけなのだから、何も起こりはしない。
「よしこうなったら実力行使だ。稲築、戸畑を捕まえろ」
「何を言ってる太刀洗。俺がなんで男子に抱きつかにゃならんのだ?」
「いやそう言うと思ったけど!」
ちょうどこのやり取りのタイミングで、何食わぬ顔をして紗矢は彼らの横を通り抜けた。声をかけられることも、腕や肩を掴まれることも、行く手を遮られることもなく、紗矢は無事に教室へと辿り着く。
いやいや待ちなさい私。今あなた何を期待していたのかしら?
き、期待なんてしてないわよ!な、何を考えてるのかしら私!?
ちょっと心を乱さないで!せっかく気持ちを整えてきたのに、これじゃ台無しじゃないの!
だいたい美郷が悪いのよ!あの子が変なこと言うからいけないのよ!
ああもう、落ち着きなさいってば!私はいつでも完璧でいなくちゃならないのよ!こんな事でいちいち動揺していてどうするの!?
千々に乱れる内心を必死に隠して平静を装いつつ、紗矢は自分の席へと着席する。
…ああ、なんだかダメだわ今日は。これが厄日ってやつなのかしら。
朝のホームルームの開始を告げる本鈴が鳴る。
今日は新入生の入学式がある。紗矢たち上級生は入学式で新入生たちを祝福してやらなければならない。だから朝のホームルームでは、新入生の胸に取り付けてやるためのペーパーフラワーをクラス全員で作ることになっていた。
教室に担任の先生が入ってきて、日直の号令で教壇に挨拶をする。今日は1日、ブルーな気分が続きそうだった。もうこれ以上、何事も起こりませんように。




