00-01.紗矢とザラ
彼女は毎朝6時には目を覚ます。
起きたらまず顔を洗って用を足し、軽くシャワーを浴びて身を清め、シャワーを出たところで置いてある大きな姿見に全身を写す。均整のとれた美しいボディラインと、しっとりと濡れる腰まで届く艶やかな黒髪、それに女神の彫刻を思わせる長い睫毛と切れ長の目。やや色白の肌は絹のようだ。
その美しい肌に、右の首筋から胸、背中、腹、脇腹まで、右上半身の全面にうっすらと幾筋もの細く赤い霊痕が見て取れる。だが右肩から右腕にはそれは無い。
霊炉を稼働させ、全身に霊力を巡らせると、霊痕が赤く鮮やかに浮かび上がる。それを確認してから彼女は身体を拭き、髪と顔を手早く整え、用意されていた下着を身に付け高校指定のブレザーの制服に袖を通す。
彼女は、魔術師だ。
制服を身に付けると、そのまま彼女はダイニングへと顔を出す。宮殿の大広間かと見まごうばかりの豪奢な調度品に彩られた広いダイニングへ入った瞬間に、ふわりと芳しい匂いが漂ってきて、すでに朝食の準備が整っていると分かる。
「おはよう、紗矢」
「おはよう、ザラ」
十人掛けの豪奢な食卓のそばに控えているメイドと短い挨拶を交わして、黒森紗矢は席へ着く。すかさず、ザラと呼ばれたメイドがサッと器の蓋を開ける。今朝のメニューはパンに溶かしたチーズ、ハムとソーセージ、それに小さめのオムレツとサラダが並んでいた。
紗矢はパンを手に取る。ライ麦で堅めに焼かれた伝統的なドイツパンはすでに薄くスライスされていて、紗矢はそれにチーズを塗り、ハムとソーセージを挟んでサンドイッチ風にして口に運ぶ。それを食べ終えると、また別のパンにチーズを塗り、今度はナイフでオムレツを少し切り分けてパンに載せ、また挟んで口へと運ぶ。
口直しに飲むのは今朝はオレンジジュースだ。本当はワインといきたいところだが、残念ながら日本の法律上彼女は飲酒ができない。
「ご馳走さま。今朝も美味しかったわ、ザラ」
全て食べ終え、ナプキンで口を拭きながら彼女はメイドに声をかける。
「当然だ。誰が作っていると思っている」
やや胸を張って、メイドは満足げに言う。
そのメイドは日本人ではなくドイツ人だ。短くまとめられた灰色の髪と、同じ色の瞳がよく目立つ素晴らしい美女だが、その瞳は何やら冷徹な光を帯びていてにこりとも笑わない。背丈はドイツ人女性の平均を少し上回っており、日本人女性としては長身と言える紗矢よりもやや高い。
紗矢は見事な美貌とプロポーションを誇っているが、メイドもそれに負けず劣らず美しい。しかもまだ少女で女として完成されておらず、やや華奢すぎるとも言える紗矢に対して、メイドは大人の女性として完成されていて、柔らかな腰回りや胸元が目を惹きつける。いわゆる大人の色香というものに溢れていたが、だがそれ以上に全身から立ち上る冷厳なオーラが艶やかな雰囲気を帳消しにしてしまっている。
黒森家は約500年ほど続く召喚魔術の名家である。いわゆる西洋式の魔術では日本にはあまり有力な家系はないが、黒森家だけは別格と言えた。なにしろ黒森家は召喚魔術の発祥の一族であるドイツ・シュヴァルツヴァルト家の直系の分家であったのだから。そしてシュヴァルツヴァルトの現存する分家筋の中でも、黒森家はもっとも古い一族であった。
紗矢の父は黒森総持という。召喚魔術の使い手の中でも現在有数の実力者であり、普段は本家の重要な戦力として世界を飛び回っていることが多い。紗矢はその一人娘で、父に勝るとも劣らないと評判の天才であった。
ただ、彼女自身はまだ本格的に魔術師として活動したことはない。言わば素質溢れるルーキー、将来を嘱望される次世代のホープといったところか。
2019年4月現在、黒森総持はシュヴァルツヴァルト本家の密命により日本を離れておよそ半年ほどになる。今どこで何をしているのか、それは紗矢にも知らされてはいなかった。
「今朝の時点で上がっている決済書類はこんなところだ。目を通しておくか?」
ザラが手早く食器を下げ、代わりに書類の束を持ってくる。結構な分量がありそうだった。
「私が目を通さなければならないものがあるのかしら?あれば見るけれど。なければ、貴女がいつものように処理をしておいて」
「承った。では、そのように」
ザラはそう言って、書類を全て取り下げてしまった。
先ほどからメイドのザラの態度が主人に対するものではないのだが、それには明確な理由がある。彼女はメイドであると同時に、紗矢の魔術の導師も務めているのだ。それもそのはずで、彼女はザラ・ヴァイスヴァルトという。シュヴァルツヴァルトの三大分家と言われる黒森、ヴァイスヴァルト、ローゼンヴァルトの三家のうち、彼女はヴァイスヴァルトの先代当主の娘であり、現当主の姉であった。
つまり彼女もまた魔術師である。それも総持と並んで、シュヴァルツヴァルトの現有戦力の中では五指に入る実力者であった。実力も経験も、そして一族内の地位も、本来は今の紗矢よりずっと格上なのである。
そんな人物がなぜ他の分家でメイドなどに身をやつしているのか。ドイツ貴族の称号であるフォンを名乗っていない事からも分かるとおり、とある事情で今や彼女は実家を離れていて貴族とは呼べない立場なのだ。
つまり彼女は、召喚魔術の貴族の出身ではあるものの今は対等の分家である黒森家のメイドである。主人とメイドという意味では紗矢の方が立場が上で、導師と弟子という意味ではザラの方が立場が上なのであった。
ザラが今持ってきた書類は総持の経営する黒森不動産の決済書類だ。黒森家は一般社会では不動産と資産運用を取り扱う会社の創業者一族で、黒森不動産は地場大手に数えられる程度には成功した企業である。
つまりこの書類は、本来は社長である総持が決済すべき書類であった。総持が不在のため名代として紗矢が処理すべきものだったが、ザラは社長秘書兼社外取締役の肩書きも持っていて、事実上紗矢は会社の仕事をザラに丸投げしているのだった。
とはいえ紗矢を責められはすまい。なにしろ彼女はまだ高校二年生。本来は会社経営などに関わることのない、気楽な学生の身分であったのだから。
紗矢はダイニングの壁にかけられた、年代物の高価そうな大きな振り子時計を確認する。6時半を少し過ぎたところだ。
「少し早いけれど、そろそろ学校へ行くとしましょうか。
ザラ、後のことはよろしくお願いするわね」
「了解した。気をつけて行ってらっしゃいませ、お嬢様」
傍目には慇懃無礼にしか見えないが、紗矢は気にする風もない。ザラから学生鞄を受け取るとそのままエントランスホールに向かい、彼女は颯爽と扉を開けて外の世界へと出て行った。
「…ふう、行ったか。
ではまず決済からだな」
紗矢を見送り、そう呟くとザラは首筋を左右に伸ばす。こきり、こきり、と首の筋が小気味よい音を立てる。ついでに右拳を固めて左手で包み、拳の骨も鳴らす。左拳も同様に鳴らしたあと、彼女は奥の書斎へと消えていった。




