第90部分
「そういえば、どちらに向かえば良いのかしら」
歩き出して暫く経った頃、アイシスがふと呟く。そもそも目的地は出発地点の西方なのだが、人が立ち入れる様な場所では無い為に直行は出来ない。そのような理由で今までは北上して来た訳だが、道を外れた今となってはこのまま北上すべきかがアイシスには分からなかった。西方に目を向けてみても、森林らしき緑が遠くにあるのが分かるだけだった。
「そうですね……目的地自体は此処からですと南西方向になりますが、西側を見る限りは未だ足を踏み入れるのは難しそうです。暫くはこのまま北上して、西側へ回れる場所を探す事になるかと」
アイシスと同様に西方を眺めた後、タチバナが主の問いに答える。目的地から遠ざかるしかないという事はアイシスにとって中々にもどかしいものであったが、タチバナが言うならばそれに従う他は無かった。
「……そんなに詳細に見えるの? 私は精々、なんだか森っぽいという事しか分からないのだけど」
改めて西側を向き、目を見開きながらアイシスが言う。この身体を手にして以来、基本的に何かを見るのに困った事は無かったアイシスであったが、やはりタチバナの視力は非常に優れていると実感する。
「はい。無論、生まれ持ったものもあるでしょうが、私は日頃から五感を鍛えておりましたので」
タチバナが答える。元々は別の目的で鍛えられたものではあるが、今こうして主の役に立てられているという事は、タチバナには悪くない事に思えた。
「ああ、そういえばそんな事も言っていたわね。そうだ、折角だからその鍛え方とやらを教えて頂戴」
タチバナの言葉を聞き、以前の考えを思い出したアイシスがそれを実行に移す。そんな簡単に五感が実際に鍛えられるとはアイシスも思っていないが、現在の能力をより上手く扱える様にはなるかもしれないとの考えからであった。もし仮に何の効果も得られなかったとしても、こうしてタチバナとのコミュニケーションが取れるだけでも、アイシスにとっては多大な意味を持っているのだった。
「……そうですね。本格的に鍛える為にはそれなりの準備も必要になりますので、此処では簡単なものをお教えしましょう。今回は視力のお話でしたので、それを鍛える方法を。と言っても、本当に簡単なものですが。遠くのものと近くのものを交互に見る。これだけでございます。ご自身の指を顔の近くに立て、それと遠くの何か目標になるものを交互に見るのがよろしいかと」
「成程ね、ありがとう」
タチバナが説明した方法は本当に簡単なものであった。アイシスはそう答えると、早速それを試そうと自らの右手の人差し指を顔の前に立てる。が、その瞬間にタチバナがそれを諫める。
「お嬢様。歩きながらでは注意が疎かになってしまい危険ですし、そもそも恐らく上手くは行かないかと思われます。目標物との距離が逐次変わってしまいますので」
タチバナのその言葉は理に適ったものであり、アイシスも直ぐに納得してその指を下ろす。だが、折角タチバナに教えて貰った事を直ぐに試せないという事は、アイシスにとって多少なり不満を感じる事であった。とはいえ反論の余地も無い事は本人にも分かっており、アイシスはせめてもの抵抗としてその唇を突き出してタチバナの方を見るのだった。
昨日以来のその表情であったが、やはりタチバナはそれを視認した瞬間に吹き出すのを堪える事になる。その上、何故か笑いが込み上げようとする力が昨日よりも強く、タチバナはそれを抑えるのにより大きな集中力を割く事になった。とはいえ、迷いが消えたタチバナは昨日以上の警戒を維持していたが、それでもこの状況が続く事は好ましくなかった。
どうにかしてこの状況を打破しなければならないが、主に向けてそれを止めろと言う事は出来ない。どうすべきかとタチバナが考えていた時、その鋭い聴覚がふとある音を捉える。
「お嬢様、私に付いて来て下さい」
タチバナはそう言ってアイシスの前に出ると、北西の方へと進んで行く。その行為は現状に於いて必然性のあるものであったが、タチバナは正直に言えば助かったと思っていた。
「え、どうしたのタチバナ?」
タチバナの行動には必ず何か、自分達の為になる意味がある。そう思ってはいたが、その意図までは分からないアイシスはそう尋ねながらタチバナの後を追う。当然だがその唇は元に戻り、やや困惑した表情を浮かべていた。
「此方の方向から湧水の音が聞こえました。飲用に出来るとは限りませんが、見に行ってみましょう」
アイシスの問いにタチバナが答える。周囲では風の音や葉擦れの音、そして自分達の足音がこだましており、とてもその様な音はアイシスの耳には届いていなかった。どんな耳をしているのか。そう思ったアイシスだったが、そういえばタチバナは言っていたと直ぐに納得する。日頃から「五感を」鍛えていたと。
そこまで考えた時、アイシスには一つの疑問が浮かんだ。五感を鍛えていたと言うが、視覚や聴覚等は兎も角、触覚や味覚を鍛える必要はあるのかと。だが、その答えは存外に早く見付かった。味覚は毒見等で役に立つのだろうし、触覚は風向きやその強さを測るのに使えそうだと。そんな事を直ぐに思い付けた事で、アイシスは自身が冒険者として少しは成長した気がして嬉しくなるのだった。




