第89部分
「……かしこまりました。それでは、私は投げたナイフを回収して参りますので少々お待ち下さい」
気を取り直したタチバナがそう言うと、アイシスは何かに気付いたような表情を浮かべた。そして直ぐにそれを心配げな表情へと変化させながら口を開く。
「ああ、そう言えば結構ビュンビュン投げていたわね。でも大丈夫なの? 色んな方向に投げてたし、茂みも中々深そうだけど、そう簡単に見付かるのかしら。良ければ私も手伝うわよ?」
周囲を軽く見渡しながらアイシスが言う。地面は雑草や落ち葉で覆われており、投げたナイフがそう簡単に見付かるとは思えなかった。それ故に自分も手伝う旨を伝えはするが、タチバナの口振りからそれが不要である事にも薄々と気付いている為、その判断をタチバナに委ねる形になった。
「お気遣いありがとうございます。ですが、ナイフを投げた位置や方向は記憶しておりますし、その軌道から今ナイフがあるであろう位置も概ね予測出来ています。それ故に直ぐに終わりますので、どうか楽になさっていて下さい」
そう言い残し、タチバナはすっとその場を去る。概ね予想通りの答えであったとはいえ、やはりアイシスは驚きを隠せなかった。目で追うのも難しい様な速さで戦っている中で、ナイフを投げた位置や方向を記憶しているだけでも凄まじい事であるのに、その軌道や到達位置まで予測しているとは。人間としては圧倒的な戦闘能力だけでなく、知識や頭脳も非常に優秀であり、更に自身への強い忠誠心も持ってくれている。そう考えると、やはりタチバナの存在こそがチート染みている。そう思ったアイシスは、タチバナへの感謝を更に深めるのだった。
「お待たせ致しました。お嬢様のご準備がよろしければ、直ぐに出発いたしましょう」
アイシスが思惟に耽っていると、言葉通り直ぐに回収を終わらせたタチバナの声が耳に届く。いや、早過ぎるでしょう。我に返ったアイシスが最初に思ったのはそれだった。全てのナイフの位置が完全に分かっていたとしても、回収して戻って来るまでが早過ぎる。改めてそう思うアイシスであったが、それについて言及する事はしなかった。自身の常識でタチバナを測るべきではない事は、先程の戦いを思い返すだけでも明白であった。
「ええ、行きましょう。私は荷物を下ろしてすらいなかったから、直ぐに出発出来るわ」
アイシスが笑顔で答える。こうして冗談の様な事を気軽に言えるのも、タチバナとの距離が縮まったからだろう。そう思うと、アイシスは嬉しさから更に笑顔を輝かせた。
「……それでは、次に同様の事が起きた場合には、お嬢様に戦って頂きましょうか」
少々の間を置いてタチバナがそう言うと、それを聞いたアイシスは暫しの間言葉を失う。調子に乗り過ぎたか。直近のアイシスの表情の変化からその内心を予測した結果、自らも冗談を言ってみたタチバナがそれを軽く後悔した時だった。
「……ぷっ。あはは……! おっかしい!」
アイシスが高らかに笑い出す。その内容というよりは、普段クールなタチバナが真顔のまま冗談を言うシュールさがその要因ではあったが、タチバナが冗談を言ってくれたという事実がアイシスにとっては何よりも嬉しかった。そのアイシスの笑顔に、タチバナは直前にした後悔を取り下げる。誰かを笑わせる為に何かをする。そんな事を出来る心が自らに残っていた事に驚きながらも、タチバナはそれに小さな喜びを感じるのだった。
「駄目よ、タチバナ。貴方は私の従者なんだから、私を矢面に立たせたりしたら」
未だ込み上げる笑いを堪えながら、アイシスが言う。
「……申し訳ございません。先程のは冗談でございます」
アイシスの言葉を受けたタチバナが丁寧に謝罪をすると、アイシスは再び笑い出す。一度笑い出してしまえば大体の事が面白く感じるという精神作用の所為もあるであろうが、冗談を言った事について大真面目に謝るタチバナの姿が、アイシスには大層コミカルに感じられたのだった。
一方、タチバナは少々困惑していた。主を喜ばせようと冗談を言ってみたのは確かだが、まさかここまで受けるとは思っていなかった。自分はそれ程に面白い事を言ったのだろうか、と直近の出来事を真剣に考察するが、自らが生み出したシュールさに気付かないタチバナは、アイシスの笑いの理由には辿り着く事は出来なかった。
「……大丈夫、分かっているわ。それじゃあ、今度こそ行きましょうか」
一頻り笑った事で落ち着きを取り戻したアイシスが言う。
「かしこまりました、参りましょう」
主の言葉に、タチバナは思索を中断して応じる。穏やかな陽光の下でアイシスが歩き出すと、タチバナがその右側にすっと並ぶ。既に陽は傾き始めており、飲み水の確保に使える時間はそう多くは残っていなかった。にもかかわらず、両者の心中は存外穏やかなものだった。
これではいけない。そう思ったタチバナは直ぐに気を引き締め、周囲への警戒網を広げる。それを感じ取ったアイシスも真顔になろうと努めるが、胸の内の喜びや楽しさが溢れてしまい直ぐに笑みを浮かべてしまうのだった。




