第388部分
「うん? ああ、確かに威勢の良い音が聞こえて来ておるのう」
しかし、これまでの本人の話からしてシラユキがその事に気付いていない筈は無かった上に、少なくともアイシス自身はその密かな抗議の意もどうせ読まれてしまうと思っていたにもかかわらず、その質問を受けたシラユキはそう疑問の声を漏らしながら台所の方に目を遣ると、まるでたった今その音に気が付いたかの様にそう答える。
とはいえ、いくら基本的にはその言葉を疑う事の無いアイシスでも、流石にその言動が事実を示しているなどとは思わなかったが、そんなバレバレの演技をする意図には全く以て見当も付かなかった為にどの様な反応をすべきかも分からず、ただ訝しげな表情を浮かべて視線を返すに留まっていた。
一方、それが「威勢の良い」とまで評されただけの事はあり、かつ別に……少なくともアイシス的にはそれを意識していた訳ではないものの、それが比較的小さな声で交わされていたという事もあり、それらの会話はその音を立てている張本人であるタチバナの耳には殆ど、少なくともわざわざ意識してそれを拾おうとしない限りは届いてはいなかったが、シラユキの催促に応えるにしても主の優しさに報いるにしても流石にそちらに意識を割いている場合ではない為、その内容が気にならない訳ではないものの眼前の鍋とその中の食材の変化に意識を集中させていた。
いや、確かにそれを見る事も料理では大切ではあるにしても、それに応じて自らの身体をどう動かすのかという事が料理の神髄ではないのかという話なのだが、わざわざそんな事をせずとも基本的に自らの身体を思い通りに動かす事が出来るタチバナにとっては、集中すべき事柄は自身の外にあるものに限定されていたのであった。
ともあれ、そうして食材を炒めて続けていれば当然の事ではあるのだが、それにより生じた化学反応の結果か、やがて台所からはその「威勢の良い音」だけではなく、何やら美味しそうな匂いが漂って来ると、当の本人がそれに対して何かしらの反応を見せるよりも早く、それに気が付いたアイシスの腹の虫が盛大な……という程ではないにせよ確かな鳴き声を上げる。
そして、それは鍋からの騒音に最も間近で晒されているタチバナの耳にも届いていた為、当の本人は勿論、その正面に居るシラユキの耳にも当然ながら届いていた筈であったが、頬を赤く染めながらも無言のままそちらに視線を送ったアイシスに倣う様に、シラユキもまた無言のままアイシスの方を、より厳密にはその音の発生源の辺りを眺めていた。
「……良い匂いもして来ましたけど、何を作っているんでしょうね」
そのシラユキの反応には、直ぐにツッコミが無かった時点では「台所からの音により聞こえなかったのかも」という淡い期待を抱いていたアイシスも流石にそれを誤魔化すのは無理であると悟ると、自身の腹の音の要因をそれとなく述べてその正当性を示しつつも、それがあくまで雑談であるという体でそうシラユキに問い掛ける。
「さあの。そうして色々と予想するのも楽しみの一つではある事は否定せぬが、儂の場合はそうすると大抵正解に辿り着いてしまうのでな。いざ出された時の楽しみが減ってしまう故、敢えて考えない様にしておるのじゃ」
しかし、その意図を察してかそれ以前からの配慮か、その言葉を受けたシラユキは弟子の腹の虫については特に触れこそしなかったものの、その質問には即座にそう素っ気ないとも取れる答えを返すが、実際に当人もその様に感じたのか、続けてそう答えるに到った理由を丁寧に説明する。
尤も、実際にはその最初の答えが返って来た瞬間、アイシスが感じていたのは「シラユキでも分からないのか?」という驚きが殆どであったのだが、その後の説明により即座にその謎が解けると、最終的にその胸中を占めていたのは名状し難い胸の温かさだった。
というのも、シラユキはこの様な秘境で独りで……いや少なくともフィーという友人は居る筈だが、まあ同居はしていない様であり、かつその友人が料理をしている姿は想像し難い以上、そうそうこの様な、つまり「何の料理が出て来るかが分からない」などという機会は無いにもかかわらず、いやだからこそなのかそれを「楽しみ」にしているという、その能力やら肩書きからは少し想像し難い事実は、アイシスに喜ばしい様な微笑ましい様な複雑な感情を抱かせたのであった。
「なるほど、頭が良過ぎるのも大変なんですね。私なんかは全然予想も付きませんけど、冒険の途中では油が貴重だったのかあんまり何かを炒める料理は出て来なかったので、何が出て来てもちょっと新鮮な感じがして嬉しいです」
とはいえ、まだシラユキとは短い付き合いではあるものの、自身が当人に対して「微笑ましい」などと感じている事を喜ぶタイプではない、という事位は何となく察していたアイシスはそれを表には出さぬ様にそう答えると、少なくとも聞こえて来る音から判明している調理の工程について、そう自らの感想を正直に述べるのであった。




