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第386部分

 いや、厳密に言えば別にはっきりとした音が発生した訳ではないというか、少なくとも常人の範疇にあるアイシスの聴覚ではそれを捉えられたという訳ではないのだが、自身でもその様な思いが全く無かったと言えば嘘にはなるものの、師の突然の地雷を踏み抜く様な言動にはアイシスも驚きを隠す事は出来ず、落ち着かない様子でシラユキの顔と台所の方に交互に顔を向けていた。


 一方、それが本心からの発言なのか、それとも自分達の話を聞いているであろう自身への牽制であるのかは不明なものの、突然自身の仕事の遅さを、しかも先程まではそれも仕方が無いという雰囲気であったにもかかわらず指摘された形となったタチバナの方も、その精神力を以てしても流石に驚きを隠せないというか、何れにせよ自身を急かす様なその言葉により慌てて再度その意識を仕事の、則ち料理の進捗の方へと引き戻していた。


 尤も、既に現状でそれ以外に出来る事は全て済ませてしまっており、だからこそ再度主達の会話へと意識を向けていたのである以上、注目すべきは炊飯中の鍋のみであったのだが、別にガラス製という訳でもなく普通に金属製のそれでは当然ながら傍からその様子を探る事は叶わず、ただ内部で沸騰しているであろう湯の音が僅かに聞こえるばかりだった。


 とはいえ、無論ただ単に空腹に耐えかねて催促しただけであるという可能性もあるものの、シラユキがわざわざあんな事を口にしたからにはきっと相応の理由がある筈だ、と好意的に解釈する事にしたタチバナはその蓋を開けて内部の様子を確かめるまでもなく、思い切ってそれを加熱していた火を消してしまう。


 いや、それで半生の白米が出来上がってしまったらどうするのか、という話ではあるのだが、そもそも他の調理過程をやや前倒しで済ませた事と同様の理由により、つまり今後の調理過程を考えれば仮にそうなってしまったとしてもどうにかならない事もないと考えたタチバナは、シラユキの催促に応じて更に調理の過程を早める事を決断したのであった。


 尤も、その「今後の調理過程」の事は誰にも話したりはしていない以上、普通に考えればシラユキがそれを前提とした催促をしたなどと考える事には無理がある筈なのだが、自身が目にして来たシラユキの能力ならばこれまでの過程で発生した音のみからでも十分に推測が出来るのであろう、という他の相手にはとても寄せられない程の全幅の信頼により、十分な論理的な根拠が無くとも多少の危険を冒す決断に到ったのであった。


 なお、その「全幅の信頼を寄せられない」というのは言うまでもなく能力に関しての話であり、人間性という意味では自らが定めた主であるアイシスは勿論、それ以外にも何人かそれに値する相手と出会えたという事は、当人にとってこの旅での望外の収穫と言って良かった。


「……ええと、お米を炊くのには時間が掛かるので仕方が無いですよ」


 ともあれ、実際にシラユキがその辺りを察していたかは兎も角、少なくともアイシスからすればそんな事は知る由も無かった為、暫し経ってもタチバナの反応もシラユキの次の言葉も無かった事を自身の言葉を待っているのだと解釈すると、そう口にして突然急かされる事となったタチバナをフォローする事を試みる。


 尤も、そんな事は当然シラユキも知っている筈である為、その発言に意味があるのかという事に最も懐疑的であったのは口にした当人ではあったが、未だ師の突然の発言への驚きから完全には復帰出来ていない事を措いても、その内容に対して言える事は他には思い付かなかった。


「それはそうじゃが、お主はこのただ待つしかない時間に些かの苦痛も感じていないと言うのか?」


 しかし、当人の予想とは裏腹に、それを聞いたシラユキは意外にもその言葉にはあっさりと同意を示すが、だからと言って納得が出来るという訳ではない、という体で逆にそうアイシスに訊き返す。


「……ええと、それは、ちょっとはじれったいというか、楽しみにしてる分だけ早く出来上がらないかな、とは思わなかったと言えば嘘になりますけど」


 尤も、例によってそれがシラユキの本意であるとは限らぬものの、その発言はつまり「シラユキはただ単に待ち切れなくなって先の様な事を口にした」という事を意味していた為、その千年を生きる大賢者とは思えない言動にアイシスはまた若干の沈黙を挟むが、それだけ正直な思いを口にしたシラユキにそう問われては嘘も吐けない、という事で言葉を選びながらもその質問には肯定の答えを返す。


「じゃろう? ならばこうしてその気持ちを表明する事は別に悪い事ではあるまい。少なくとも我々の関係であればの」


 その慎重な姿勢とは対照的に、やや食い気味にそう言ったシラユキはその気持ちを表明する事は悪い事ではないと続けると、それでも迷う様子を見せるアイシスの姿を見てか、少なくとも自分達の関係であればと注釈を付け足すのであった。

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