第377部分
「……? 何かありましたか?」
そのシラユキの視線に、直近の出来事を知る由も無いアイシスはさぞ不思議そうに首を傾げながら一度振り返りその視線の先を確かめるが、自身の目ではそこには何も見えなかった為に当初の予定を変更し、つまり先のシラユキの言葉への返答よりも優先してその意図を素直に尋ねる。
「いや、虫の多い季節になったのう、と思うての」
しかし、仮にも襲撃を受けたにもかかわらず、アイシス達から姿を隠していた相手の意思を尊重したのか、或いは単に説明が面倒になったのかは不明だが、その質問を受けたシラユキはいつもの通り即座に答えこそしたものの、珍しく事実を答えるのではなくそう、ある程度はそれっぽいもののとぼけた答えを返す。
「え? それはちょっと嫌ですね。いえ、別に全ての虫がそうという訳ではないんですけど、家の中まではちょっとご遠慮頂きたいというか……」
と、自身の目には何も見えなかった為につい疑問の、というよりも驚きの声を漏らしたものの、当然ながら先の出来事には未だ一切気付いていない事もあり、師の言葉を疑う理由も無いアイシスはそれを素直に信じると、虫に対しても無駄な配慮をしつつもその言葉に、より厳密にはそれが示す状況に対する自らの思いを述べる。
一方、丁度その頃に、より厳密には一つ前のアイシスの言葉の直後位には漸く平静を取り戻していたタチバナの耳にもそれらの一連の話は届いていたが、同じく先の出来事については気付いていなかった筈であるにもかかわらず、互いの性格の差か、それともその出来事の容疑者と関わった経験の差か、明らかに情報が足りていないにもかかわらず、タチバナには何が起きていたのかが直感的に理解出来ていた。
尤も、当然ながら流石にその襲撃の様子等までが想像出来たという訳ではない上に、そもそも十分な根拠が無い以上、たとえ直感的にそれが事実らしいと感じていたとしてもそれをそのまま事実だと判断する様なタチバナではなかったが、そうして何となく頭に浮かんだ映像、つまり先の替え歌を何処かしらで聞いたフィーが高速でシラユキに襲い掛かる様子には、再度胸から込み上げるものを堪えずにはいられなかった。
「うむ。その通りじゃな」
ともあれ、そのアイシスの発言にはシラユキも賛成だったのか、それを聞いたシラユキは満足げに頷いて同意を示す。が、その際にも妙ににやにやとした笑みを浮かべて虚空に視線を送っていた為、それを見たアイシスは再度不思議には思ったものの、自身の意見に同意された事への喜びもあり、深くは気にせずに自身も頷いて更なる同意を示す。
しかし、未だ先の出来事を知らぬアイシスからすればその程度の反応で済むそのシラユキの言葉も、それが事実であると認めた訳ではないとはいえ、それを何となく察してしまったタチバナからすればフィーを虫扱いしているかの様にも聞こえた為に、流石に当人もそれを意図した訳ではないだろうが更なる追撃を受ける形となったタチバナは、再度作業の手を止めなければそれを堪える事が出来ない程の危機に陥っていた。
「……ところで、ちょっと間が空いちゃったので今更言うのもあれですし、折角褒めてくれたのに申し訳ないですけど、やっぱり、流石に私の歌の方がシラユキ先生のよりも魅力的なんて事はないと思いますよ。上手さが違い過ぎると思います」
とはいえ、無論そんな事は知る由も無く、先の出来事についても同様であるアイシスは暫しの沈黙の後に口を開くと、間が空いた為に今更口にする事に若干の躊躇いを覚えた事を明言しながらも、漸く当初の予定通りに先のシラユキの発言についてそう自身の考えを述べる。
いや、その間についてもそうだが、同じくその発言自体にもあった通りに申し訳ないとまで思うのであれば、褒められた事を素直に受け取っておけば良いではないか、という話ではあるのだが、歌というものを好いているからこそ、その技術の差を措いたままシラユキの言葉を素直に受け取る事は出来なかったのであった。
「まあ、技術的な面で言えば全く以てその通りではある……が、確かに歌には技術も大切ではあるものの、それは一定の線を上回る必要はあるという意味が大きく、お主の歌は十分にその線には届いておると言えるじゃろう。尤も、無論それ以上の技術もあるに越した事は無いのじゃろうが、受け売りではあるものの儂も同意見であるとして或る者の言葉を送ってやろう。曰く『歌とは歌い手の心を表現するもの』であり、それ故に『最も大切なのはその時の心そのものと、それがどれだけ表現出来ているか』である、との事じゃ」
しかし、それを聞いたシラユキはその一部については、つまり技術的な面については同意を示すが、当然ながらやはりその言葉で自身の意見を曲げたりはせず、某かの言葉を引用しつつ自身の発言の意図をそう丁寧に説明するのであった。




