第376部分
しかし、その裏にある意図は当人のみぞ知る所であるとはいえ、内容からしてそれは少なくとも何らかの反応を期待しての発言ではあった筈なのだが、位置関係的にその期待が最も大きかったであろう人物は、そのシラユキの大賢者らしからぬ冗談、或いは嫌味に対して返答はおろか、特に何の反応を見せる事も無かった。
いや、正確に言えばその人物、つまりアイシスはそのシラユキの発言に対しては十分過ぎる程の反応を見せてはいたのだが、その冗談が口にされる以前の、というよりもその最初の部分の時点で既にその反応を見せ始めていた結果、最早その後半部分については耳に入っているかどうかすらも怪しい状態となっていたのであった。
というのも、これまでにも暗にそれを示されたり、人づてにその旨を伝えられたりはしていたのだが、こうして面と向かって自身の歌を、しかもたった今自身の眼前で素晴らしい歌声を披露した当人に褒められたとなればその喜びは勿論、照れ臭さに関しても過去に類を見ない程に高まったアイシスの精神は最早一時的に世界との繋がりを失い、それらがある程度落ち着くまではただもじもじとした動きを続けながらそれに浸るのみになっていたのである。
しかし、期待していたものとは異なっていたとしても、或いはそれこそが期待していたものだったのかは不明だが、そのアイシスの反応は当人にとっては十分に満足出来るものだったのか、それを見たシラユキは自身の冗談が不発に終わった事への不満を見せる事も無く満足げな、だが何処か人の悪そうなそれにも見える笑みを浮かべ、弟子の照れる様子をただ眺めていた。
だが、そうして食卓側では何とも平穏な状況へと落着した一方で、最早恒例の様になってしまっているがその真逆の状態となっている者も居た。
いや「者も居た」も何も当然ながらそれはタチバナの事なのだが、アイシスとは異なりそれをしっかりとした意識の中で聞き届けた上に、その尊敬の度合いは兎も角、少なくともその能力の高さをアイシス以上に正確に把握している身としては、その能力の高さからは想像も出来ないシラユキの冗談らしき発言による影響は計り知れず、いつもの様に吹き出す事を堪える羽目になったのは勿論、今度はそれに全身全霊を掛けなければならない程の危機に陥ってしまった為に、最早その作業の手すらも完全に止めて何とかそれを達成したのであった。
とはいえ、「仕事中に他人の話に聞き耳を立てた挙句、その内容に吹き出してしまう」という、自身の印象すらも一気に変えてしまいかねない失態をどうにか防いだ事自体は良いとしても、その為に作業の手を止めてしまう、などという事は当人の職業意識に、そして信条自体にも反する事である為に、そもそもその我慢自体の影響も含め、その心情は「平穏」とは対極の状態になっていた、という訳である。
則ち、シラユキが存外にも満足げな表情を浮かべていたのは、流石にその一連のタチバナの内心での出来事を直接的に把握していた訳ではない筈だが、一時的に作業の音が止んだ事からそれをある程度推測した為である、という可能性もあるという事なのだが、当然ながらその表情自体を物理的に見る事は叶わぬタチバナは勿論、未だに顔を伏せて羞恥に悶えているアイシスに到るまで、そんな事は当人以外には一抹の知る由も無かった。
筈なのだが、先述の通りの理由により誰もその様子を目にする事は無かった、つまりその出来事を知る由も無い事も同様であるものの、その状況、つまりシラユキのさぞ満足げな態度に異を唱える者も居た。
いや、その状況的に音を発する事を避けた為か、厳密にはその反論、或いは反抗は言葉ではなく行動によって行われたのだが、精神状態が平常とは言えない上に、そもそも昨夜のシラユキとの問答以降は特別に周囲を警戒している訳ではないとはいえ、タチバナすらも気付かない中で何らかの攻撃でも行われたのか、満足げな表情でアイシスの様子を眺めていたシラユキが突然、数度に渡りその首を傾ける事で何かを躱す様な動作を見せる。
尤も、仮にその様子を眼前で目撃したとしても、その魔法の才をシラユキにも認められたアイシスは兎も角、魔力を持たぬタチバナにはただシラユキが突然首を動かした様にしか見えなかったであろうが、何れにせよ当人達以外には誰もそれを知る事の無い中、シラユキは目に見えぬ何者かの襲撃を巧みに躱し続けていた。
が、その時間もそう長くは続かず、やがて感情がある程度落ち着いたアイシスの顔色が戻り始めるとそれを感じ取り、顔を上げたアイシスに目撃される事を恐れた襲撃者は撤退していったのか、ふと実際にアイシスが顔を上げた時には、既にシラユキの動きはすっかりと落ち着き、先程よりも更に苦笑いに近付いた表情のまま、アイシスの横の虚空を眺めていたのであった。




