第373部分
しかし、無論当人にはそれに気付く様な余裕は無いものの、その様子を眺めているシラユキのにやけた表情からしてそれはそこまで深刻なものではないというか、まあ当人の若さもあってちょっとした笑い話の範疇ではあったのだが、主の咽る様子を音のみで聞かされているタチバナからすれば、当然ながらその体調について一定以上の心配を抱かずにはいられなかった。
とはいえ、例によってそれで自身が出張るというのは聞き耳を立てていた事を意味する為に難しい、いや今回に関しては別にそれには当たらない気もするが万一を考えればやはり憚られる、という事を措いても、シラユキが特に何の対応もしていない以上はその心配が不要である事を意味する、という事はタチバナも理性では理解出来ている為、その身を案じて駆け付けたいという衝動を抑えて自身の役割を全うする事に集中する。
尤も、実際にはその音が聞こえている間はとてもそう出来ていたとは、少なくとも当人にとっての「集中」という言葉の意味の中では言えなかったのだが、何れにせよシラユキがにやにやと笑いながら眺めるだけに終始していたのは伊達ではないという事か、そう時間が掛かる事も無くやがてその発作も落ち着き、耳に入るのが主に自身の作業の音だけになると、その抱えていた心配も徐々に薄れて消えていった。
「……ふう」
一方、そうして一時的な発作から立ち直ったアイシスは先ずは文字通りに一息吐くと、意図せず酷使する事になってしまった喉を労わる為にも再度の水分補給を試みようとするが、直近のその体験が一種のトラウマになったのか、或いは単に同じ轍は踏まぬ様にという理性的な行動なのか、麦茶を湯呑に注ぐ所からそれを口に運ぶに到るまで、全ての動作を明らかに不要な程の慎重さで行っていた。
そして、それをいよいよ自身の喉にゆっくりと流し込んだ時、アイシスは漸く自身に向けられていたシラユキの、見ただけで思わず神経を逆撫でされるかの様なにやにやとした視線に気が付くが、その動揺により再度咽てしまっては仕方が無い、というよりそうなってしまう事で眼前のにやけ面を継続させてしまうのは甚だ悔しいという事で、何とか平常心を保って、いや厳密には保ててはいなかったのだが無事に湯呑を空にする事には成功する。
「……どうかしましたか?」
しかし、自身の単なる失敗に対してならば兎も角、咽るという事には当然ながらそれなりの苦しみも伴っていた為、それをも自身の楽しみにしていた事を意味するそのにやけ面には流石に何かしら物申したい気持ちを抑え切れなかったアイシスであったが、仮にも師を相手には下手な事は言えない、という事もそうだが、そもそも性格的にあまり乱暴な言葉遣いをする事にも抵抗があるという事で、最終的には再度先程と同様の質問を口にする。
「いや、やはり人間を観察するのは面白い、と思うての」
だが、それを強く咎める様なシラユキではない、という事を無意識には理解しているという事もあり、その口調や表情には存分に不満を滲ませていた、というよりも当人に伝わる様にと意図的にそう見える様に努めてさえいたその努力も虚しく、当然ながらそれが先程と同じ質問である事を覚えていたシラユキは、自身も先程と同様の返答をする事でその不満を容易に躱してしまう。
「……そうですか」
その師の意地の悪い言動に、いや文面上は質問に不足無く答えているだけなのだが、今回は咽るという、まあ一過性のものである上に自らの不注意によるものであるとはいえ明らかな不幸があったにもかかわらず、それを「面白い」と言い切ってしまった事もあり、無論根本の信頼が揺らぐ様な事こそ無いものの、へそを曲げたアイシスは呆れた様な表情を浮かべると、そうとだけ素っ気なく呟いて黙り込んでしまう。
尤も、正直に言えばまだまだ言いたい事はあるというか、碌に言い返せないままでいる事には無論一定の悔しさは感じていたのだが、仮に何かしら言い返した所で口論に、もとい口喧嘩になったら絶対に勝てないという事は明白である為に、より嫌な思いをする前に沈黙を選んでしまう事で、自身の不満というか、抵抗の意思を示す事にしたのであった。
一方、その子供染みたささやかな反抗に、アイシスの性格を考えればちょっと意地悪をし過ぎたと感じたのか、或いは単にその大人と遜色の無い外見には似合わない反応自体に対して呆れてしまったのかは不明だが、それを見たシラユキはその表情を少しだけ変化させる、具体的にはにやける様だった笑みを少し困った様な苦笑いへと変えると、やれやれといった風な動作と共に盛大に溜め息を一つ吐くのであった。




