第370部分
しかし、そのまたしても衝撃的な、いや例によって論理的に考えればその限りでもないものの、特に元々は魔法など存在しない世界から来た少女にとっては間違いなく驚愕に値する光景も、未だに顔を伏せて照れていたアイシスの目には映る事すらも無かった。
「あ、ありがとう……ってあれ?」
とはいえ、そうしてシラユキが空中に留めた湯呑と少し遅れて合流した麦茶の容器が同時に食卓の上へと置かれた音により直ぐに現実へと戻って来ると、別にそれを意識していた訳ではないものの、直前までの顔を伏せていた状況でも視界の端にはシラユキの存在は確認出来ていた為に、当然ながら話を聞いたタチバナが気を利かせてくれたのだろう、と直ぐに判断したアイシスは顔を上げながら少し申し訳無さそうにその事への礼を述べるが、それにより目に映った予想とは異なる光景に思わずそう驚きと疑問の入り混じった声を漏らす。
「おっと、もう引っ込んでしもうたのかのう? 案外恥ずかしがり屋さんなのじゃなあ」
と、その状況の一部始終は当然ながら全て知っているにもかかわらず、その当人の視線から見れば滑稽であろう反応を見たシラユキはそう揶揄う様な、或いはおどける様な口調でその勘違いに乗ってそうとぼけた返答をしてみせる。
「いえ、方法は分かりませんが、いや何らかの魔法ではあるんでしょうけど、兎に角シラユキ先生が用意してくれたんですよね? ありがとうございます」
が、前述の通りに当人はその様子を見ていなかった、どころか実際に当人もその様な誤解をしていたにもかかわらず、そのシラユキの発言を聞いたアイシスは即座に、かつ珍しい程にはっきりとそれを否定すると、完全にそれが残る唯一の可能性である師の仕業であるという体でそうシラユキに礼を言い頭を下げる。
「ほう、何故そう思うのじゃ?」
それは意外な反応だったのか、そのアイシスの言葉を聞いたシラユキは感心した様に息を吐くと、いつもの様にそれに対する自身の推測を口にする事も無く、そう素直にアイシスにその言動の、つまりその様子を見ていなかったにもかかわらず、飲み物を用意したのがタチバナではないと判断、どころかその性格と言動からして確信にまで到ったのかの理由を尋ねる。
「え? だってタチバナが持って来てくれたなら、私がお礼を言う前に逃げる様に居なくなる筈無いじゃないですか」
しかし、それこそ当人にとっては心底意外な反応だったのか、そのシラユキの質問を受けたアイシスは「本気で言ってるのか?」とでも訊きたげな程の口調でそう驚きの声を漏らすと、特に勿体ぶる事も無くさぞ当然である様にその理由をそう説明する。
「成程のう。しかし、その自らの従者への信頼と理解は大したものではあるが、実際には半分正解、といった所じゃな」
その説明は十分にそれに値するものだったのか、それを聞いたシラユキは満足げにそう呟くと共に深く頷くが、その反応に「でしょう」とやや得意げな表情を浮かべたアイシスにとっては心底意外な事に、直ぐに再度口を開いたシラユキは例によってやや揶揄う様な口調でそう続ける。
「……ええと、どういう意味でしょう?」
だが、その意外さもさる事ながら、その続けて述べられた言葉は事実ではあるものの、事情を知らぬ者にはその意味を理解する事は困難である為、アイシスも一応はそれを理解しようとは努めてみるものの、結局は早々に諦めてそう自身も素直にその意図を尋ねる事にする。
「言葉通りの意味なのじゃが……まあ、想像する事は中々に難しいかもしれぬな。というのも、麦茶の方は確かに儂が魔法で用意したのじゃが、湯呑の方はタチバナの奴が投げて寄越したものじゃからのう」
しかし、その疑問自体は状況を考えれば当然のものではあるものの、実際にその通りである為かそれを受けたシラユキも先ずはそう答えるが、とはいえ実際の状況を想像する事が困難である事には同意見だった様でその旨を明言すると、アイシスが見逃していた一連の状況をそう簡潔に説明する。
だが、その説明の前半は兎も角、後半に関しては心底予想外だったというか、直前に褒められたばかりの自らのタチバナへの理解からは程遠い行動であった為に、それは必要十分な内容を述べた極めて簡潔な説明であったにもかかわらず、一時的に理解が追い付かなくなったアイシスはそれを聞いた瞬間の表情と体勢のまま再度動きを止めてしまう。
そして、それを発言者当人が意図していたのか、そしてそれに気付いているのかは不明だが、その説明の影響はそれだけには留まらなかった。
というのも、当人の身体能力を考えれば実際に取った行動、つまり湯呑を投げて渡すという、状況を考えれば効率的ではあるものの横着であるとも言える行動と、一度台所を離れて湯呑をそっと渡して来るという行動に掛かる時間にはそこまでの差は無い為、アイシスがその様子を見ていない事を確認したからこそ先の行動に踏み切ったタチバナとしては、出来れば事実は伏せたままでいて欲しかったのだが、実際には無情にもそれが明かされてしまった現実に、主の反応を待つその胸中はまた人知れず穏やかとは言えなくなってしまっていたのであった。




