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第369部分

「……ところでじゃが、特に話す事も無いのであれば歌でも歌ったらどうじゃ?」


 ともあれ、少なくともアイシスに関しては無論別にタチバナに状況を知らせまいとしていた訳でも、逆にその集中を邪魔しない様にと気を遣っていた訳でもないものの、そうして訪れた沈黙は暫しの間破られる事は無かったが、その間も視線をアイシスから外す事の無かったシラユキはふと口を開いたかと思うと、アイシスに向けてそう唐突にも思える提案をする。


「……え? いえ、その、いきなりそう言われても恥ずかしいですし、そう言えば喉も渇いてますし……」


 そのあまりに予想外の発言には、その沈黙の間にそれなりに平静を取り戻していたアイシスもまた暫しの時を空けてそう聞き返す事が精一杯だったが、例によってその直後にその発言の内容を遅れて理解するや否や再度頬を赤らめてもじもじしながらそう答えると、文字通りそう言えば、と思い出した自身の不調……という程でもないかもしれない現状を告白する。


「別に恥じる必要がある様な歌だったとは思わぬが、まあ良い。これまでにも随分と喋らせてしまった事であるし、何れにせよ喉の渇きは癒すべきじゃな」


 しかし、そのアイシスの恥ずかしがり方とは裏腹に、その返答を受けたシラユキは即座にその必要は無いと私見を述べるが、何れにせよ無理強いをする気も無い旨を即座に示すと、そう口にした後に何やら台所の方へと視線を向ける。が、その不思議とも言える行動にも、眼前でそれを目撃した筈のアイシスからは何の反応も無かった。


 というよりも、視界の端に捉えた、という程度の状態をそう呼ぶならば兎も角、実際にはアイシスはそれを目撃すらしていないという方が正しく、というのもそのシラユキの最初の言葉を聞いた時点で、そもそもその前の提案の時点から既に満更でもなかった喜びが上限を、いや何の上限だという話ではあるが兎に角突破した結果、顔を伏せて恥じ入っていたアイシスには先ずその言葉の後半すらもまともに聞こえてはいなかったのである。


 が、その様な体たらくの主とは対照的に、その時台所で調理に集中していたタチバナはその瞬間、より厳密にはそうしてシラユキが視線をその方向へと向けた瞬間から暫しの間、その集中の全てが一時的に無に帰す程の衝撃的な光景を目撃していた。


 というのも、そもそもその空間自体がタチバナからすれば不可思議極まりないものであるという事は措いておくとしてその瞬間、台所にあった何らかの妙な力、もとい恐らくは魔法の類により低温が維持されている収納の戸が独りでに開いたかと思うと、その中に保管されていた麦茶の容器が宙を浮いた状態でそこから現れた挙句、そのまま食卓の方へと向かっていったのである。


 いや、冷静に考えれば別にそれ程の事でもないというか、これまでに得た情報のみから判断するとしても、シラユキであればその程度の所業は出来て然るべきと言えばそうなのだが、その場に術者当人が居るならば兎も角、自身の他には誰も居ない所でそれを見せられた事でより増幅された衝撃は、タチバナ程の精神力の持ち主にもその様な冷静な思考をさせなかったのであった。


 とはいえ、それ程の衝撃を受けても尚、そこからの立て直しの速さは流石であると言った所か直ぐに気を取り直したタチバナであったが、中断していた調理の作業に戻るのではなく一度軽く手を水で洗い流すと、朝食後に洗って乾燥させていた湯呑を一つ手に取り、少し考えた後に何と食卓の方へと向けてそれを放り投げる。


 いや、何をしているのかという話ではあり、もしその目論見が外れた場合には誰よりもそう思うのはタチバナ自身ではあったのだが、直前に目にした光景とこれまでに見聞きしたシラユキの情報を総合した結果、それが最も効率的、かつ現在の自身に出来るアイシスの従者としての最善の行動であると判断したのであった。


 則ち、平静を取り戻して以降の瞬時の思考により、それを一時的に失ったその光景がアイシスの喉の渇きを潤す為のものである事と、流石のシラユキでも遠隔で一度に二つ以上の物を動かすのは難しいのか、或いは自身を信用して意図的にそうしたのかは不明だが、その時点ではその為の食器が不足している事を理解したタチバナは、流石にその行為の一見した愚かさに一瞬の躊躇をしながらも、シラユキならばそれを落としたりはしないだろうという信頼から、最終的に湯呑を投げるなどという行動に踏み切ったのであった。


 そして、実際にそれを期待していたのか、或いは不意を突かれる形になったのかは定かではないが、少なくとも突然、つまり自身が意図しないタイミングで台所から湯呑が飛んで来た事は確かであるにもかかわらず、シラユキは微塵も動揺を見せる事無くそれを受け取るが、その結果は兎も角、その手段はまたタチバナの想像を超えるものだった。


 というのも、その湯呑を受け取る音が聞こえて来なかった為、もしかしてやらかしてしまったのか、とさしものタチバナも一瞬は不安になったものの、その場合には聞こえるべき音も聞こえなかった事でどういう事かと一定の困惑を隠せなかったのだが、実際にはシラユキは手を動かそうとすらしていなかったにもかかわらず、どの様な手段を用いたのか、いや魔法である事は明白なのだが飛んで来た湯呑は手で受け取られたかの様に空中で静止したのであった。

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