第198部分
そうして、日が当たる自らの仕事場へと戻って来たアイシスは早速作業を再開しようとするが、その際に自身の身体の表面に強めの違和感を覚え、思わず周囲をきょろきょろと見渡す。辺りには特に変わった所は無く、その行為自体は徒労に終わったが、その頃にはアイシスにも違和感の正体が分かっていた。
「ああ、日差しってこんなに温かいものだったのね」
その答えを誰にともなくそう呟く程に、アイシスにはその温かさが感動的なものの様に感じられた。暫くの間はずっと薄暗い森林の中を歩いてきており、その間も特別に寒いと感じていた訳ではなかったが、こうして久し振りに日差しを全身で受けていると、アイシスはそれがとても有り難いものであったのだと思えていた。とはいえ、何時までもそれに浸っている訳にはいかない。そう考えたアイシスは地面へと視線を落とすと、全力で薪拾いを再開するのであった。
探す範囲が日向へと限定されている上に、そもそも此処は森林の内部である為、アイシスが木の枝を集める事には何の苦労も無かった。これまででも明らかに最高の効率で進んでいく作業に、アイシスは強い手応えを感じていた。これならば、タチバナの仕事が終わる前に戻れるかもしれない。
尤も、実際にそうなったとて食事までの待機時間が長くなるだけなのだが、アイシスにとってそれはいつか叶えたい悲願であった。無論、それでタチバナよりも仕事が出来るなどと思う訳ではないが、彼我の仕事の量の差を考えれば、それくらいは出来てもおかしくはないとアイシスは考えていたのだった。
そうして十分だと思われる量の薪を拾い集めたアイシスは、仕上げに焚き付け用の枯れ草を探してみるが、少なくとも周辺には見付からなかった。森林内では日差しが林冠に遮られて地面にまで届きにくい為、そういった雑草の類は育ち辛いのかもしれない。そう考えたアイシスは代わりに乾燥している枯葉をいくつか拾うと満足げな表情を浮かべ、集めた薪を抱えてタチバナの居る場所へと歩き出す。当然アイシスは直ぐにその場所へと辿り着くが、その目に映ったのは意外な光景であった。
石作りの簡素な竈が既に組まれていたり、その周囲にトレーや鍋が置かれているのはいつも通りではあるのだが、そこにタチバナの姿は見当たらなかった。その事実にアイシスは強い不安に襲われ掛けるが、直ぐに強い意思でそれを防ぎ止める。タチバナが自らを置いて遠くに行く筈が無い。その強い信頼があるからこその芸当ではあったが、少女はその半生から独りで居る事に若干のトラウマを抱えている事もあり、居る筈のタチバナがそこに居ないという光景には、若干の心細さを感じている事は否めなかった。
「……でも、一体何処に行っているのよ」
その心細さによる思考能力の減退により、タチバナの目的を推測する事が難しくなっていたアイシスが、そう呟きながら抱えていた薪を竈の近くの地面に下ろした時だった。その前方にある茂みから、何やらガサガサという音がアイシスの耳に届く。
「きゃあっ!」
アイシスはそれに心底驚き、悲鳴を上げながら思わず後方へと数歩も後退る。その際に躓いたり転んだりしなかった事は、その身体の運動能力の高さを示していたが、無論アイシスにはそんな事を考える余裕は存在しなかった。剣を抜くべきか、或いは逃げ出す事を考えるべきか。動転した頭でそんな事を考えていたアイシスであったが、その前に現れたのは意外な、だが本来であれば当然である筈の姿だった。
「……おや、お嬢様。既にお戻りになられていたのですね、お待たせしてしまい申し訳ございません」
茂みから姿を現したタチバナが淡々とそう言うが、その言葉はどう考えても白々しいものであった。タチバナの感知能力であれば、当然ながらその事には当初から既に気付いていた。だが、自身としては普通に帰還したつもりであるにもかかわらず、アイシスが非常に強く驚いてしまった為に、その存在に気付いていなかった風を装ったのであった。尤も、それは本来であれば一瞬で看破されるだけの誤魔化しであり、それを口にした事はタチバナもまた平静を失っている事を示していた。
だが、その姿を目にした事で強い安堵を感じたとはいえ、未だ気が動転したままのアイシスはそんな事にも気が付かず、ただタチバナの言葉の意味を理解する事が精一杯であった。
「……お帰りなさい、今戻って来た所だから大丈夫よ。でも、一体何処に行って……」
それ故に、アイシスは思考を殆どそのまま言葉にしてそう言うが、タチバナがこの場を離れていた目的を尋ねようとした際に、漸くタチバナが手にしていた物体に気付くと、思わずその続きを呑み込むのだった。
「ああ、此方をご覧になればご理解頂けるかと思いますが、昼食の材料を捕りに行っておりました。本当はお嬢様よりも先に戻るつもりであったのですが、お嬢様の見事なお仕事振りによってその目論見は崩れてしまいましたね。流石はお嬢様、この短期間でそれ程に作業の効率化を図るとはお見事です」
アイシスが平静さを取り戻しつつある事を感じ取り、自らもそれを完全に取り戻したタチバナが、手に持った獲物を少し持ち上げながら言う。そこにはアイシスが待ち望んでいた、自らの仕事への称賛の言葉も含まれていた。だが、アイシスの意識はタチバナの持つ物体へと集中しており、それは殆ど聞き流されてしまったのであった。