第195部分
そうして、それを告げる宣言をしてから少々の間を空け、タチバナが食事を取る事に適した場所を探す為に出発すると、アイシスも直ぐにそれに付いて歩き出す。アイシスの発言の効果が出たという訳ではなかったが、タチバナが歩く速度は悪路でもアイシスが十分に付いて行く事が出来る程度に抑えられていた。それは従者としては当然の配慮ではあったが、それでもアイシスはその配慮に喜びを感じると、前を歩くタチバナの後をやや視線を下げたままで付いて行くのだった。
そう言えば、タチバナは何を気にして場所を移動する事にしたのだろう。タチバナの助言に従い、自身の足元をやや過剰な程に気にして歩きながら、アイシスはふとその様な事を考え始める。だが、それから十歩も足を進めぬうちに、現状の自身の知識ではそれを推測する事が難しい事に気付くと、直ぐにその思考を打ち切る。そして次の思考の対象を探そうとするが、足元に注意を払いながらではそれは上手くいかなかった。
それ故に、暫くの間は仕方なくその歩行へと集中していたアイシスであったが、ふと今の自分達に関する思考がその脳裏に浮かぶ。こうして縦に並んで歩いていると、まるでいつか見たロールプレイングゲームみたいである。かつての少女は読書を主な趣味としていた為に、その手のゲームをプレイした事は無かったが、無論、読書だけに時間を費やしていた訳ではなかった。その他の趣味の一環である、動画サイトの閲覧に於いてかつて見た光景が、この瞬間に思い起こされたのであった。
それは意図して行った思考ではなかったが、その様に思った事で、この単なる移動の時間がアイシスには一気に楽しいものになった様に感じられた。尤も、その思考が脳裏に浮かぶ以前から、アイシスは十分に楽しげな様子で歩いていたのだが。
とはいえ、その思考によってアイシスが感じる楽しさがより増大した事は確かであり、それは直ぐに行動へと表れ始める。則ち、アイシスは再び鼻歌で音楽を奏で始めたのである。だが、それは先程とは異なり、少女が直前の思考に基づいて意識的に始めたものであった。その為、少女が奏でる曲もそのロールプレイングゲームのフィールドに於いて流れていた音楽となっていたが、当然ながらうろ覚えも良い所であり、本来の旋律とはそれなりに異なったものが辺りには響くのであった。
だが、それは音楽としての体を為さぬものという訳ではなく、それを奏でる本人も、そして直ぐ前でそれを聴いているタチバナも、それを耳にする事で何かしらの正の影響をその精神に受けていた。無論、その様な余計な音を立てるという事は、何処に魔物が潜んでいてもおかしくはない現状に於いては、それを惹き付ける事に繋がりかねない為、好ましい行動であるとは言えなかった。しかし、それは主が望んで行っているのであるという事と、付近にはその様な存在は感じられないという事実と、仮にそうなったとしても自身が対処すれば問題は無いという自負から、タチバナはそれを咎めたりはしなかった。
尤も、それらの理由が言い訳に近い事は、タチバナ本人も薄々と感じていた。とはいえ、それらは論理的には正しく、またそれらが実際の理由に含まれていない訳ではなかったが、他に大きな理由が存在する事はタチバナ本人が最も良く分かっていた。アイシスが奏でるその旋律を、自身は耳にしていたいと思っている。それはタチバナにとっては信じ難いものではあったが、自身の中に確かに存在する感情を否定する様な事を、今のタチバナがする事は無かった。
それは旋律そのものの美しさの為なのか、或いはそれがアイシスの楽しさを表現している為なのかはタチバナ本人にも分からなかったが、やはりそんな事はタチバナにはどうでも良かった。その欲求の為に主へと催促するなどは論外だが、自身の内心を覗かれる事がある訳ではないのだから、こうしてその欲求を密かに満たしている分には問題は無いだろう。その様に考えると、タチバナはアイシスが奏でる旋律に耳を傾けたまま、より食事に適した場所を探して歩くのだった。
それから暫しの時が流れたが、未だ二人は歩き続けていた。その間、アイシスは幾度か旋律を変えながらも、そのゲームに関する曲を記憶の限りに鼻歌で奏でていた。とはいえ、そろそろ空腹感が強くなってきた事は否めなかったが、自らの先の発言を考えると、自身からその事を言い出す事は憚られた。それ故に、アイシスは鼻歌へと意識を集中させる事にするが、既に記憶には未演奏の曲は残っておらず、再び最初に奏でた旋律へと戻るのであった。
そうして、耳に届く音が聞き覚えのある旋律になった事により、タチバナはふと我に返る。実を言えば、食事を取る場所として妥協出来る様な処を、タチバナは既に何か所か見付けていた。だが、その不十分な点を自らの頭の中で強調し、より適した場所を探す理由としていたのだった。だが、それが言い訳であるという事は本人が最も良く分かっており、タチバナは人知れず自らを強く恥じるのであった。