第193部分
「かしこまりました」
アイシスが平静を取り戻した事への安堵故か、一瞬だけ反応が遅れたタチバナであったが、そう言うと直ぐにまたアイシスの右隣へ素早く移動し、その歩調をアイシスに合わせる。そうして今度こそ二人並んで歩き出した頃には、アイシスはもうすっかり平静を取り戻しており、この冒険への情熱を再び燃やし始めていた。そして同時に、こんな事を思ってもいた。この立ち直りの速さこそが、この旅で自身が最も成長した部分かもしれない。
斯くして、本格的に森林内の冒険を始めた一行であったが、やはりそれは平原に居た頃の様にはいかなかった。森林の地面には落ち葉や小枝等がこれまでとは比較にならぬ程に堆積しており、更には樹々の根が辺りに縦横無尽に這っている為、旅慣れぬアイシスには普通に歩く事すら困難な時もある程だった。だが、その困難さとは裏腹に、アイシスはまるで幼子の様にその瞳を輝かせていた。
雄大な自然の中を歩く事自体が楽しく、足を前に出す度に落ち葉や枯れ枝を踏む事で鳴る音が面白く、そして隣にタチバナが居てくれる事が嬉しい。その様な感情は表情以外にも表れ始め、いつしかアイシスは鼻歌で音楽を奏で始めていた。それは少女がかつて居た世界でいつか耳にしただけの曲であり、少女はその歌詞すら満足に記憶していなかったが、そんな事はどうでも良かった。というより、それはそもそも無意識の行動であり、少女は自身がそうしている事にすら気付いてはいなかった。
それ故に、タチバナにとってその旋律は無論聴き慣れぬものであったが、特にそれに違和感を覚える様な事は無かった。そもそも音楽に関する知識や経験を殆ど持たぬタチバナには、それがどういった曲であるかを判断する事すら難しかったが、何やら楽しげな旋律である様には感じていた。尤も、それはアイシスの様子に引きずられた評価かもしれなかったが、そんな事はタチバナにはどうでも良い話であった。ただ、アイシスがその様に楽しげにしているという事が、タチバナにとっては他の何にも代えがたい喜びだった。
とはいえ、アイシスが何をそんなに楽しんでいるのかを理解する事は、タチバナには甚だ難しい事であった。ただでさえ歩き辛い地面である上に、時折、巨木故にそれに見合った太さである木の根の上を通る羽目になっている。その上、樹木の密集具合の影響で辺りは薄暗く、鳥の声を初めとした環境音が樹々に反響してやや喧しく感じる程である。そして、行く手にはしばしば蜘蛛の巣が張られている事もあり、それは避けるにも処理するにも面倒なものである。
それらをあまり苦にしない自身は兎も角、アイシスは実際にその蜘蛛の巣に引っ掛かったり、巨木の根を越える事に難儀したりしているにもかかわらず、その瞬間でさえその様子は楽しさに満ちている様に見える。それがタチバナには不思議でならなかったが、その理由について深く考える事はしなかった。相変わらず周囲の広範囲に警戒網を広げながら、タチバナは楽しげに歩を進めるアイシスをただ見守るのだった。
とはいえ、薄暗い上に遮蔽物には事欠かず、音が樹々に反響する為にその発生源の特定も難しい森林の中では、その警戒の難易度も平地とは比較にならない程だった。それ故に、タチバナの集中力の消耗の度合いも自ずと大きく上昇していたが、それを表に出す様なタチバナではなかった。尤も、それでもタチバナの精神には、未だそれを休まずに丸一日以上は続けられる程の余裕はあるのだが。
その様な調子で森林内を進んでいた一行であったが、やがてアイシスも森を歩く事に慣れ始めてきた事もあり、目的地への距離を順調に縮めていっていた。無論、未だその道のりが遥かに長い事は事実であったが、これまでの北上という遠回りを強いられていた事に比べれば、歩を進めた分だけ間違いなく目的地に近付く事が出来るという現状は、随分とアイシスの気を楽にしていた。未だにアイシスが鼻歌を続けている事には、その事も影響しているのかもしれない。そんな事をタチバナは考えていた。
そうして、アイシスが鼻歌で奏でる曲が幾度も移り変わり、やがて最初の旋律へと戻って来た頃だった。慣れない森歩きに、これまで楽しげであったアイシスの表情にも、やや疲れの色が見え始める。日差しをあまり通さない為に薄暗い森林の中では気付き辛いが、既に太陽は真上に近い角度から地上を照らしていた。
僅かな林冠の隙間から漏れる日差しが、まるで光の柱の様に見える光景。先程までは斜めに見えていたそれが、殆ど地面と垂直になっている。その事に気付いた事で、アイシスは漸く昼が近い事を察すると、
途端に自らの身体が空腹を主張し始める事を感じていた。それは直ぐに音という現象となり、それが自身やタチバナの耳に届いた事を確認すると、アイシスはその足をピタリと止める。
「タチバナ、そろそろご飯にしましょうか」