第190部分
「よし。それじゃあ、いよいよ森林地帯へ入るわよ」
その不自然な入り口の前へと辿り着いたアイシスであったが、やはり未知のものに対する不安から一度そこで足を止めると、それを振り払う為に敢えて声に出してそう言う。それを脇で聴いていたタチバナにはその様な不安は無論無かったが、その主の行動の意図は概ね理解する事が出来ていた。
「はい。くれぐれも注意を怠らぬ様に進んで参りましょう」
とはいえ、森林という場所がこれまでの様な平原に比べて危険である事は間違いなく、自身が傍に付いているとはいえ、やはりアイシスもある程度の緊張感を持って進んだ方が良い。そう考えたタチバナは敢えて主を安心させる為の言葉は口にせず、返事をする事で自身の存在を知らせるに留め、その緊張感を緩めぬようにとアイシスに助言する。
「ええ。視界も平原とは比較にならない位に悪いだろうし、より一層注意していかないとね」
まさに自身の意図した通りの展開である。アイシスの返答を聴いたタチバナはその様な事を思ったが、その直後にはそれを撤回する事になる。タチバナの言葉は確かにアイシスの注意を高める事には成功したが、その結果、アイシスは周囲をきょろきょろと見回し始め、中々前へと足を踏み出そうとしなくなってしまったのであった。
そうして過剰な程に辺りを窺いながら、周囲の樹々によってトンネル状になっている森林への入り口をアイシスはじりじりと進んで行く。その様子に、タチバナは先程の自身の発言の誤りを感じずにはいられなかったが、自身が口にした言葉をそう易々と撤回する訳にはいかなかった。斯くして、そのトンネルをくぐり終えるにはタチバナが想定した数倍の時間を要する事になったが、タチバナにはそれを甘んじて受け入れる事しか出来なかった。
そうして森林への入り口となるトンネルをくぐり終え、広大な森林へと本格的に足に踏み入れたアイシス達であったが、その瞬間に両者はある共通した感覚を覚えていた。その奇妙な程に鮮烈な感覚に、アイシスは思わず足を止めると、先程から続けていた過剰な警戒状態を解除して口を開く。
「何かしら、今の感覚。まるで別世界に迷い込んだみたいな……。ねえ、タチバナ。貴方も感じたかしら?」
遂に足を踏み入れた森林の内部は薄暗く、また様々な生物の声が樹々に反響してやや五月蠅い程であった。だが、自身がそういった五感が得る情報を意識する以前に覚えた奇妙な感覚に、アイシスは深く考える前にタチバナにそう尋ねる。
「はい。此処は巨木の林冠の影響により薄暗く、また様々な生物の気配に溢れている為に外部とはかなり環境が異なりますが、此処に足を踏み入れた瞬間、そういった情報とはまた別の違和感を覚えたのは確か……であったかと思われます」
それはアイシスの言葉程に詩的なものではなかったが、自身も主と同様の感覚を覚えていた旨をタチバナが答える。だが、その感覚はタチバナにとっても生まれて初めてのものであり、それ故にタチバナにしては珍しく、その言葉も最後にはやや歯切れが悪くなってしまっていた。
「その様子だと、貴方にとっても初めての感覚の様ね。という事は、此処には何か魔法的な力が漂ったりしているのかもしれないわね。何が起こるか分からないから、より一層注意して進む事にしましょう」
タチバナの様子からその事を察したアイシスの発言を聴きながら、その観察眼の鋭さと的確な考察にタチバナは思わず感心してしまう。先程のきょろきょろとした奇妙な姿からは想像が出来ない――そこまで考えた所で、早急に言葉を返す為にタチバナは慌てて口を開く。その言葉通りに先程の様子から更に注意を強めたアイシスの姿を想像すると、実際にそれを目にした際に我慢する自信がタチバナにはまるで無かった。
「はい。見事な洞察力と的確なご指示、流石はお嬢様。ですが、周囲への注意は私がお引き受け致しますので、お嬢様はご自身の付近にだけ注意をお払いになって下さいませ」
くれぐれもアイシスに失礼が無い様にと努めてタチバナが言う。それは主に自らの精神の平静を保つ為の発言であったが、そんな事は知る由も無いアイシスはそれを聴くと、その配慮と頼もしさに純粋な喜びを感じ、それを表情にも滲ませていた。その様子にタチバナは少しだけばつの悪い思いを感じていたが、決して偽りを述べた訳ではないと自身を納得させるのであった。
「ありがとう。その頼もしさ、タチバナこそ流石ね。さて……それじゃあ、そろそろまた……」
進み始めましょう。微かな照れ笑いを浮かべながらタチバナに礼を述べた後、そう言葉を続けてまた歩き出そうと前を向いたアイシスであったが、その瞬間に思わずその言葉を呑み込んでしまう。この場所に足を踏み入れた時に覚えた奇妙な感覚、そしてその後のタチバナとの会話へと向けれられていた意識が初めて眼前の風景へと向けられた時、そこに広がっていたのは、かつて病室という小さな世界で暮らしていた少女にとってあまりにも雄大な景色であった。