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第188部分

「お嬢……様?」


 常に一定の口調で話す事を心掛けているタチバナであったが、この場面に於いてはアイシスに対し、そう遠慮がちに声を掛ける事しか出来なかった。これまでにも似た様な状況は幾度かあったが、その時とは両者の関係が少々変化している事と、今度ばかりはアイシスがそうなっている理由が微塵も理解出来なかった事から、さしものタチバナも動揺を隠す事は出来なかった。とはいえ、早く先に進む事はアイシス本人の望みでもあると思えば、タチバナには現状の解決を試みるという選択肢しか存在しなかった。


 一方、勝手な妄想によって暫し呆けていたアイシスであったが、タチバナの声により漸く我に返る。タチバナに何かがあったのかもしれない。その声が普段よりも弱かった為に無意識にそう感じた事が、その素早い復帰の助けとなっていた。タチバナはその動揺を心の弱さだと恥じていたが、それが却って状況を好転させたのであった。尤も、そんな事はタチバナには知る由も無いし、仮に普段通りの口調で声を掛けていたとしても、何度目かにはアイシスも我に返っていただろうが。


「……あ、ごめんなさい。何でもないから大丈夫よ。水の補給も終わった事だし、そろそろ出発しましょう」


 そうして我に返った結果、タチバナの動揺の原因が自身である事を理解したアイシスは、それを解消する為に出来るだけ平静を装って言う。その努力も空しく、アイシスの顔は未だに林檎と見紛う様な赤さを保っていたが、その事は目的の達成には何の影響も与えなかった。その意を汲んだタチバナは、アイシスの認知能力には問題が無いと理解した事もあり、アイシスとは異なり既にその平静を真に取り戻していた。


「かしこまりました。それでは、いよいよ森林地帯へと進入して参りましょう……と言いたい所ではございますが、現状では未だ人が入れそうな場所が……うん?」


 先程のアイシスの異常の理由が全く気にならない訳ではないが、主が何でもないと言ったからにはその様に扱うしかない。そう考えたタチバナはアイシスに荷物を渡し、自身の荷物も拾い上げると、普段通りの口調でアイシスへと言葉を返す。だが、その途中で南の森林地帯の方へと視線を向けた時、タチバナは思わず言葉を詰まらせて驚きの表情を浮かべる。


「どうかしたかしら?」


 例によってその表情の変化自体は認識出来なかったものの、その様子からタチバナが何かに驚いている事は察したアイシスは、そのあまりの珍しさにより一気に平静を取り戻してそう尋ねる。その間、タチバナは何度か瞬きをして自身が見た光景を確かめていたが、当然ながらそれが変化する事は無かった。


「……いえ。私の記憶が正しければ、今朝お嬢様が目覚められる前に南の森林を確認した際には、未だ人が足を踏み入れられる様な場所が見当たらなかった筈なのです。しかし現在、私の目に誤りが無ければ、此処から丁度真南の辺りに入り口の様な物が在る様に見受けられます」


 先程アイシスの異常に気付いた時ほどではないものの、動揺から普段よりも少しだけ小さな声でタチバナが状況を説明する。だが、その動揺はその不思議な体験に対してのものではなく、自身の記憶または視覚に異常が発生したかもしれないという事に対するものだった。つい先日まで他人を信用した経験が無かったタチバナにとって、自身の能力がその唯一の対象であったのだから、それへの疑念が生じかねない此度の事態は非常に深刻であると言えた。


「成程。だったら話は簡単よ。さっきまでは実際に人が入れる様な場所は無かったけど、何らかの理由でそれから今までの間に入り口が出来たのよ。その方法は私には分からないけど、まあ魔法とか色々あるでしょう。貴方の記憶と視覚に間違いがある筈が無いのだから、この仮説も間違いが無い筈よ」


 その声からタチバナの動揺を感じ取ったアイシスは、再びそれを解消する為に声を大にして力説する。とはいえ、その為にアイシスがした事は声の張り具合を意識したというだけであり、その言葉の内容は全て本心のままであった。タチバナが訳も無く見間違いや記憶違いをするという事に比べれば、得体の知れない相手が謎の魔法を用いて地形までを変化させたという方が、アイシスには遥かに信じられる事だった。


 そのアイシスの言葉には確かな根拠が存在する訳ではなかったが、タチバナはそれに不思議な程の説得力を感じていた。自身の能力への信用も直ぐに回復し、その様な変化が確かに起きたという事を確信する事も出来ていた。その言葉の不思議な力を実感し、タチバナは自身がアイシスを主と定めた事の正しさを改めて確信するのだった。


「……ありがとうございます。その理由や方法は私も存じませんが、お陰であの森林に入る事が出来るのは確かです。仮に何者かの罠であったとしても、お嬢様の事は私がお護り致しますのでご安心下さい」


 その事に対するものも含め、タチバナはアイシスへと感謝を告げると、またいつもの口調で話を続ける。その内容にアイシスはまたその顔を赤らめるが、今度は俯いて黙り込んだりはせず、照れ笑いを浮かべながらもしっかりとその口を開く。


「ええ、頼りにしているわ。それじゃあ、いい加減に出発するとしましょう。いざ、広大な森林地帯へ! ってね」

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