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第187部分

「……はい。既に出発の準備もほぼ完了しておりますので、最後に水の補給を済ませましたら、いよいよ森林地帯へと進んで参りましょう」


 とはいえ相手は仮にも自身の主であるのだから、その感情を明文化する訳にも、その原因となった事象をあからさまに指摘する訳にもいかない。そう考えたタチバナは、それが二度目の発言である事は示さぬまま、先程と同様の趣旨の話をもう一度アイシスへと伝える。だが、それならば先程の溜め息は何だったのか。そう指摘したのはタチバナ自身の理性であったが、その答えは本人にも分からなかった。ただ、アイシスはその行動に本気で憤ったりはしないだろう、という事は分かっていた。


「分かったわ。それじゃあ、悪いけど井戸から水を引き上げるのは任せるわね」


 そのタチバナの言葉に対し、アイシスはこれまでの流れからは考えられない程に朗らかに答える。その変わり様の要因は、自身が一度話を聞き逃したにもかかわらず、タチバナがそれについては何も言わずにもう一度話してくれた為であったが、無論タチバナにはそれを知る由も無かった。だが、その様子から自身のアイシスへの理解が正しかった事は感じていた。


 そして、そのタチバナの感覚は正しく、アイシスはタチバナの溜め息に負の感情は些かも抱いてはいなかった。寧ろ、タチバナがその様な感情の表現をしてくれる事を心から嬉しく思っていた。尤も、タチバナにそうされる様な事を自身がしでかした事については、心から申し訳無さと恥ずかしさを感じてはいたのだが。


「かしこまりました」


 そう短く答えたタチバナは井戸の方へすっと移動して木桶をその内部へ落とすと、水が汲まれたそれを例によって片腕で素早く引き上げていく。その見事な技術に見惚れながら、タチバナとは対照的にゆっくりと井戸の方へ歩いていたアイシスだったが、タチバナが井戸の蓋に引き上げた木桶を置いた丁度その時にその場へと辿り着く。


「それじゃあ、先ずは私から補給させて貰うわね」


 自身の時間調整が上手く行った事にご満悦なアイシスは、その機嫌の良さが反映された弾む声でそう言うと、いつも通りの方法で自身の水筒に新鮮な井戸水を補給していく。無論、本来であれば骨を折ったタチバナに先を譲りたい所ではあったが、仮にその旨を口にしたとしても、タチバナが従者としてそれを固辞する事は分かっていた。


 その際に発生する時間の無駄を省く為にも、そしてタチバナのその忠誠心に報いる為にも、時には自身の感情よりも主として相応しい行動を優先する必要がある。これまでの経験からその事を学んだアイシスは、主従関係の主側にもそれなりの責務があるのだという事を改めて理解すると共に、タチバナの主として恥ずかしくない自身であろうと決意するのであった。とはいえ、それは既存の凝り固まった価値観に基づいてではなく、あくまでも自身とタチバナの両者のみが互いを認め合える事だけを目標としていた。


「お待たせ。それじゃあ、次はタチバナの番……と思ったけど、別に井戸には沢山水があるのだし、もう一度汲み直した方が良いのかしら?」


 合間に一度自身の肉体にも水分の補給をしたアイシスが、その際にも自身の手等が木桶内の水に触れていた事を気にして言う。そこまで気にする必要があるとは思わないが、どうせ水は無尽蔵にあるのだから汲み直しても別に構わないだろう。話しながらふとそう思い付いたというだけの問いであり、別にタチバナがどちらを選ぼうが構わない筈であったが、アイシスはその返答の内容が何故か妙に気になっていた。


「いえ、別に不要でしょう」


 その様なアイシスの内心など無論知る由も無いタチバナはあっさりとそう答えると、自身の水筒へと水を補給し始める。主の衛生観念を否定したくないタチバナはその方法をアイシスに倣った為、アイシスと同様にその途中に自身への水分補給を挟んだのだが、それを見たアイシスは何故か鼓動が高鳴る事を感じていた。


「お待たせ致し……ました」


 無事に補給を終え、井戸の蓋や木桶も元の状態に戻し終えたタチバナは、アイシスの方に向き直ってその報告をするが、それを言い終える前にはその言葉に困惑の色が混じっていた。とはいえ、合間に若干の空白が入った事を除けば、それは殆どいつも通りの口調のままではあったが、その空白こそがタチバナの困惑を如実に表していた。尤も、自身が水の補給を終えて向き直ったら、先程までは通常の状態であった主が突然顔を真っ赤にして俯いていたとなれば、それに困惑せずにいられる人間などそうは居ないだろうが。


 とはいえ、無論それには原因が存在するのだが、例によってそれはアイシスの内心によるものだった。先程自身が水を汲み、その途中でその水を飲みもした木桶の水から、タチバナが同様の手順で水を補給した。ただそれだけの事にもかかわらず、アイシスはそこに間接キスを見出してしまったのであった。一体どれだけ薄まっているのか、という話ではあるのだが、その手の話にあまりにも疎い少女にとっては仕方が無い話……なのかもしれなかった。

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