第185部分
「……え、ええ。お願いするわ」
アイシス自身の感覚では、タチバナが果実の採取に向かってから未だ殆ど時間は経っておらず、また、その帰還時には音や気配を感じる事が出来なかった。その様な理由により、少なからぬ驚きを感じていたアイシスであったが、それをなるべく表に出さぬ様に平静を装ってそう答える。
「はい。直ぐにご用意が出来ますので、こちらで手をお拭きになってお待ち下さい」
しかし、例によってその努力はタチバナの洞察力の前では無力であったが、タチバナはその意を汲んでその事には触れずにそう答えると、いつの間にか用意していた濡れた布をアイシスへと手渡す。此方はアイシスのそれとは違いごく自然に行われた為、アイシスがその配慮を察する事は無く、結果としてアイシスは自身の誤魔化しが功を奏したと信じてしまうのだった。
「ありがとう」
そう言ってその布を受け取ったアイシスだったが、それで手を拭きながら或る事を考えていた。今朝のタチバナは事前に果実を用意していなかったのだから、恐らくこの手拭きも未だ用意していなかった筈であるのだが、先の短い間の何処にそんな暇があったのだろうか、と。だが、そう考えるまでに掛かった時間よりも短い間に、アイシスはその答えを導く事を放棄する。タチバナの仕事の速さについて考えるという事を、アイシスは数日前には既に止めにしたのだった。
「お待たせ致しました」
そうしてアイシスが思考を放棄した直後、タチバナがそう言って皮を剥かれた果実が載った皿を台代わりにしていた井戸の蓋に置く。その言葉を聴いたアイシスがそちらに目を向けると、そこに置かれていたのは林檎が載せられた皿であった。それが緑果でない事にアイシスは安堵を覚えたが、直後に緑果とは既に和解した事を思い出すと、苦笑いを浮かべながらそれを受け取りに行くのだった。
「それじゃあ、頂きます」
「頂きます」
朝食を受け取って席に戻ったアイシスがそう言うと、タチバナも小声でそれに続く。それを合図としてアイシスが手に取った林檎に噛り付くと、何やらこれまでに食してきたそれとは異なる味わいである様な気がした。品種が違うのだろうか。ついその様な事を考えた少女であったが、それを直ぐに否定する。栽培されている訳ではないのだから品種という言葉を使用する事はおかしく、そもそもその様な概念自体がこの世界に存在するかどうかも分からなかった。
その様な事を考えながら食べ進めていくうちに、アイシスはその理由が分かってきた様な気がしていた。言葉遣いは兎も角としても、恐らく種が異なるという訳ではない。無論、各果実毎にも若干の味の差はあるだろうが、似た様な熟し具合、かつタチバナが自身にそれを出す様な質の果実に於いて、その差を明確に感じ取れる程に自身の味覚が優れているとは、現時点では思えない。にもかかわらず、この林檎の味を異なっていると感じた理由とは……。
その様なナレーションを内心で付けながら林檎を食べ進めていたアイシスであったが、その答えを発表する事を何故か勿体振っていた。自身以外にそれを聞く者はおらず、その自身は当然ながらその答えを知っている。その為、それはどう考えても無意味な行為であったが、当のアイシスはその時間を楽しんでいる様だった。
それはその表情に明確に表れており、例によって既に食事を終えてその様子を眺めていたタチバナも、その事は十分に把握出来ていた。尤も、タチバナはその理由が林檎の味によるものだと考えていたが、その様な違いはタチバナにとってはどうでも良い事だった。どの様な理由であれ、アイシスが心からの笑顔を浮かべられているという事こそが、タチバナにとって何よりも喜ばしい事だった。
その理由とは……。内心でのナレーションに於いて、未だにその事を引っ張り続けていたアイシスであったが、その間に残された林檎は遂に最後の一口となっていた。芯を持ってそれを口に運び、最後の可食部を嚙り取って口に入れると、アイシスはいよいよその答えを発表する。
林檎の味がこれまでのものと異なっている様に感じた理由、それは以前より私の舌が肥え、より詳細な味を感じ取る事が出来る様になった為である。したり顔を浮かべて内心でそう言うアイシスであったが、それが真実であるかは誰にも分からなかった。だが、それが正しいかどうかという事は、アイシスにとってさして重要な事ではなかった。どちらにせよ明確な答えを出せる問題ではない以上、自身を納得させる事が出来ればそれで良いのであった。
「ごちそうさまでした」
食事を終えたアイシスがそう言うと同時に、その様子を眺め続けていたタチバナはゆっくりと立ち上がる。その内心を覗く事が出来る訳ではないタチバナにとっては、その時間はアイシスが何やら笑顔を浮かべながら林檎を食べていただけのものであった筈だが、タチバナはそれが終わる事に奇妙な名残惜しさを感じていた。その理由は本人にも良く分からなかったが、タチバナはそれを深く気にする事も無く、その意識を次の仕事へと向けるのだった。