表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

184/751

第184部分

「それならば良いのですが。それでは、少し早いですが本日はもう活動を開始されますか?」


 アイシスの言葉を受けたタチバナが言う。それは従者としての事務的な発言であり、その口調も普段通りの淡々としたものであったが、アイシスに近い思いをタチバナも抱いていた。尤も、こうして何気ない会話が出来る様な日々をかつて失った少女とは異なり、タチバナはそれを得た事すら無かった為、その感じ方にはそれなりの差異はあったが。とはいえ、この時間が悪いものではないという事は、両者に共通する認識だった。


「ええ、そうしましょう。今日からは遂に目的地に近付いて行けるのだし、少しでも彼我の距離を縮めておきたいわ」


 だが、その幸福な時間に浸っているだけでは、いつまで経っても先に進む事は出来ない。それも両者の共通認識であり、それ故のタチバナの問い掛けに対し、アイシスは意図的に現状を言葉に出して答える。それはタチバナと情報を共有する為というよりは、自身に対して改めてそれを意識させる為であった。その目論見通り、アイシスは自身の冒険への意欲が高まっていく事を感じていた。


「かしこまりました。本日から進んで行く事になる森林という場所は、これまでの様な平地とは大きく異なる危険地帯となっておりますので、より一層注意して進んで参る事に致しましょう」


 そのアイシスの高まった熱意を感じ取り、タチバナもこれからの旅路に関連した言葉を返す。アイシスが真っ直ぐに目的地を見据えるのであれば、背後を含む周囲を警戒してその旅を支える事が自身の役割である。そんなタチバナの考えが良く出た言葉であり、それを聴いたアイシスもその言葉通りに気を引き締める。だが、その際に実際に身体に力が入った事が要因となったのか、両者の間にはアイシスの腹がその空き具合を主張する音が響き渡るのだった。


「……ええ。冒険にも少しは慣れてきたと思うけれど、今日からはまた違う場所を進むのだし、慢心する事なく進んで行くつもりよ」


 敢えてその事には触れずにタチバナの言葉に返答するアイシスであったが、直前の現象が気のせいではないという事は、その真っ赤に染まった表情がありありと物語ってしまっていた。自身が直面しているその様な特殊な状況に対し、どう対応すべきであろうか。タチバナはそんな事を考えるが、その答えは自身が持つ豊富な知識の中にも存在しなかった。


 その為、必然的にタチバナはその事について悩む事になったが、それはタチバナにとって存外悪い事ではなかった。無論、本来であれば従者として忌避すべき状況ではある筈なのだが、タチバナはこれまでの生涯に於いて悩むという経験が殆ど無かった。それ故に、こうしてアイシスによって振り回される事も、それによって生じる悩みも、タチバナにとっては新鮮な経験であり、そこに楽しさを感じてしまっている事は否めなかった。


「……流石はお嬢様、素晴らしい心掛けでございます。それはそうと、これより活動を開始されるのであれば、当然ながら朝食が必要でございましたね。直ぐにご用意致しますので、少々お待ち下さいませ」


 その楽しい悩みの時間を経てタチバナが出した答えは、アイシスの選択を尊重してその事には触れず、かつそこから主の望みを汲み取る事だった。だが、この様な早い時間にアイシスが起きて来る事はタチバナにとっても予想外であり、未だ朝食用の果実の収集は済んではいなかった。とはいえ、主がそれを欲しているのであれば、そう待たせる訳にはいかない。そう考えたタチバナは、アイシスの返事も待たずにすっと駆け出す。


 いや、そこまで急がなくても良いのに。そのタチバナの様子からそう思ったアイシスであったが、そのままタチバナがテントの傍を離れた事で漸く現状を理解する。そして同時に、自身が少し早く起きただけなのに果実が用意出来ていない事を意外に思ったが、その理由には直ぐに思い当たった。


 タチバナは私に出来るだけ新鮮な果実を食べさせる為に、私が起きて来る直前にそれを用意していたのだろう。アイシスはそれを我ながら自惚れた考えだとは思ったが、タチバナが彼女自身の為だけにその様な事をする姿は、何となく想像する事が出来なかった。


 それが確実に正解であるとは限らなかったが、現在果実が用意されていない理由を推測したアイシスがそれによってまた顔を赤くしていると、付近で果実を採取する事に成功したタチバナがその場に戻って来る。自身が音を殆ど立てずに移動して来たとはいえ、アイシスがそれに気付かずに顔を赤くしている事をタチバナは少し不思議には思ったが、その理由をわざわざ探ろうとは思わなかった。


「戻りました。……直ぐに朝食をご用意致しますので、もう少々お待ち下さい」


 タチバナが帰還した旨を伝えると、アイシス身体をピクリと反応させてからその方向を見る。その後、今日は自分で果実の皮を剥くかを尋ねようとしたタチバナだったが、それを呑み込むと続きをそう口にする。

 

 今の優しいアイシスに自身がそう尋ねてしまえば、アイシスは自らの意にそぐわない答えを口にしてしまうかもしれない。それは自惚れた考えかもしれなかったが、自身の言葉でアイシスの行動を左右させてしまう様な事を、タチバナは可能な限りしたくはなかった。無論、危険を避ける為等の理由により、そうする必要がある場合を除いての話ではあるが。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ