第183部分
疲れからか泥の様に眠っていたアイシスであったが、特に明確な理由も無くふと目を覚ます。夕食の消化を待つ事も無く早めに床に就いた為か、或いは疲労により身体がより深く眠る事を選んだ為か。その理由は本人にも分からなかったが、妙にすっきりとした目覚めだとアイシスは感じていた。それ故に、もう少し眠っていたいなど思う事も無くアイシスが瞼を開くと、その目に入ったのはこれまでとは異なる光景だった。
普段ならば、アイシスが目が覚ました時に最初に見る事になるのは、その生地を透過した日差しによって薄っすらと照らされたテント内の景色であった。だが、この瞬間にアイシスの眼前に広がっていたのは、それよりもずっと薄暗い空間であり、この狭いテント内の状況を把握する事も、起き抜けのアイシスには困難な程だった。
未だ夜明け前なのに目を覚ましてしまったのだろうか。瞬間的にその様な事を考えたアイシスだったが、直ぐにその考えを否定する。困難であるとはいえ、こうしてテント内の様子を把握出来ているという事は、既に夜が明けている事を意味していた。にもかかわらずこうも薄暗いという事は、遂に恐れていた悪天候の日が来てしまったのか。
そんな考えが浮かび、それを確かめようとその身を起こした時、そこで初めてアイシスはテント内にタチバナが居ない事に気付く。それは少なくとも現在は雨が降っていない事を意味しており、アイシスはほっとその胸を撫で下ろす。だがその直後、もし雨が降っているならば、テントの布地にぶつかる音で直ぐに分かった筈である事に気付いたアイシスは、直ぐにその事に思い当たらなかった自身の鈍さを人知れず恥じるのであった。
とはいえ、長い年月を病室で過ごしていた少女にとっては、雨という事象は既に自身とは関係の無いものであると言っても過言ではなかった。その上で、この世界に来てからは好天続きであり、未だ一度もそれに遭遇した事は無いのであるから、その事が思考上に浮かび難いのも無理のない事であった。当の本人もその様に自分を慰めると、気を取り直して冒険用の衣服へと着替え始めるのだった。
そうしていつもの格好となったアイシスは、それをより完全にする為に必要な白いリボンを手に取ると、テントの入り口へと移動してそれに手を掛ける。それをやや勢い良く開くと、普段よりは目への刺激が弱かったものの、やはりテント内との明るさの差によってアイシスはその目を眩ませてしまう。
その刺激の弱さ故に直ぐに回復したアイシスが最初に気付いたのは、東方から差し込む茜色の光だった。半ば反射的にそちらへと向けたアイシスの目に飛び込んで来たのは、地平から少しだけ顔を覗かせ始めている朝日の姿だった。綺麗だ。そう思ったアイシスが暫くそれに見惚れていると、やがてその後ろから声が掛けられる。
「おはようございます、お嬢様。本日はお早いお目覚めですね」
不意に耳に入ったタチバナのその言葉はアイシスを多少なり驚かせたが、アイシスはそれを咎めようなどとは思わなかった。寧ろ、そう言えば今朝はテントを出た時点で挨拶をされなかった事を思い出し、それがこの朝日を眺める時間を自身に与える為ではないかと思うと、アイシスはこの朝焼けへの感動と同等の喜びを感じていた。
「おはよう、タチバナ。今朝は何だか早く目が覚めたのだけど、そのお陰でこんなに綺麗な朝焼けを見る事が出来たわ」
その喜びの影響でやや声を弾ませて紡がれたその言葉を聴き、タチバナは自身の選択が誤ってはいなかった事を感じていた。本来であれば、従者である自身は主の顔を見た時点で挨拶をするべきである。だが、最近のアイシスの言動から考えれば、この朝焼けを見る事を好ましいと思う可能性は高い。それならば、アイシスがそれを十分に堪能するまでは邪魔をしない方が良いだろう。その様な思考を経た結果、タチバナはアイシスに対し、その推測通りの配慮をしていたのだった。
「それは幸いでしたね。ですが、その事による体調への影響は如何でしょうか? もし未だ眠気が残っている様でしたら、もう一度お休みになってもよろしいかと存じます」
その配慮が奏功した事を誇る事も無く、タチバナは主の幸運を素直に祝福すると、今度はアイシスの体調面を慮った発言をする。先程の配慮は個人的な考えに基づいたものであったが、普段とは異なる行動を主が見せたのであれば、それによる影響を確かめる事は従者として当然だとタチバナは考えていた。
「ありがとう。でも大丈夫よ。寧ろ、とてもすっきりとした気分だわ」
その新たな配慮に対してのものも含め、少なくとも三重の意味を込める為にはやや不十分かもしれない。そんな無用の心配をしながらも、アイシスはタチバナへのお礼と質問への答えを口にする。そんな何気ない会話ではあったが、この時間をアイシスはとても幸せに感じていた。その気持ちを後押しするかの様に、朝日が優しくその背を照らしていた。