第181部分
「タチバナ、貴方……おっとこまえねぇ」
その思いが抑え切れなかったかの様に、アイシスの口から心よりの称賛の言葉が零れる。ああ、しまった。この様なあまりにも真っ直ぐな称賛を口にしてしまっては、あらぬ好意……つまりはれん……までをも疑われてしまうかもしれない。口にした本人はその様な心配をして顔の温度を更に高めていたが、一方のタチバナの反応は存外に鈍いものであった。
「……それはお褒め頂けていると理解してよろしいのでしょうか」
少々の間を置いてタチバナが言う。その一連の遣り取りにアイシスは既視感を覚え、そして直ぐに当時の記憶を鮮明に思い出す。そして同時に、あまりにもタチバナを格好良く感じていた為に失念していた、というよりもその概念を超越して捉えてしまっていた事実をも。
「……当然じゃない」
「……そうでしたか。ありがとうございます」
とはいえ、やはり一度口にした言葉を呑み込む訳にはいかないアイシスは、以前と同様の言葉を口にする事しか出来ず、それを聴いたタチバナもまた同様の言葉を返す。それらはかつてと殆ど同様の遣り取りであったが、それに付属する感慨は当時とはまた異なったものだった。無論、それはアイシスだけに限った話ではなく、タチバナもまた同様であった。
というよりも、寧ろその変化の度合いで比較すれば、タチバナの方がより大きいと言えた。アイシスにとってのタチバナの印象は、その程度こそ大きくなってはいるものの、少女にとっての初対面時から本質的にはあまり変わってはいない。だが、タチバナにとってのアイシスは、最早別人と言っても差し支えが無い程にその印象は変化していた。尤も、実際にその人格が変化してしまっているのだが、無論その様な事をタチバナは知る由も無かった。
それから暫しの時が経ったが、その場は変わらずに沈黙が支配していた。何処からか聞こえて来る虫や蛙の声と、時折吹く風による葉擦れの音だけが辺りには響いていた。その様な、静寂ともある種の騒音とも取れる状況の中、アイシスは一連の出来事による羞恥の念が限界を超え、再び顔を真っ赤に染めたまま俯いてしまっていた。タチバナはそれを見つめながら、どう声を掛けるべきかと思案していた。
「……お嬢様。風が出て参りましたので、お身体が冷える前にそろそろテントに入る事に致しましょう」
それ程の時間を掛けた訳ではなかったが、その思考の密度的には大いに悩んだ末、タチバナは俯いたままのアイシスにそう声を掛ける。実際には風の状況は暫く前から大して変化してはいなかったが、何らかの外的な理由に頼る以外に、タチバナにはこの状況を、アイシスの精神に負荷を掛けずに打破する方法が思い付かなかった。
「……え、ええ。そうね。風邪を引いたりしたらいけないものね」
一方のアイシスも、当然だが好んで今の状況に陥っていた訳ではなかった。それ故にタチバナの発言はまさに渡りに船であり、アイシスは妙に早口でそれに賛同すると、ぎこちない動きでそそくさとテントの方へと歩き出す。その滑稽な姿はタチバナを笑いに誘ったが、今度はタチバナがそれを抑える事は無かった。例の如く他者からはそうは見えない笑顔を浮かべると、自身もテントの傍へと歩き出すのだった。
「お嬢様。申し訳ありませんが、そちらで少々お待ち下さい」
テントの付近に着いたアイシスの前方に回り込むと、タチバナはそう言って自らの上半身を入り口からテント内へと入り込ませる。自身が返事をするよりも早く為されたその行動に、アイシスは暫しの間呆気に取られていたが、やがてそれが灯りを用意する為のものであった事に気付く。それとほぼ同時に、入り口の隙間から僅かな灯りが漏れ始め、外から見るテント自体も微かに明るさを増した様に見えた。
「お待たせ致しました」
「ありがとう。それじゃあ、先に着替えやらを済ませるから、少しだけ待っていてね」
本当はその事に気付いた時点で、アイシスはテントの外からでも礼を言いたかったのだが、仕事を済ませてテントから出たタチバナがそう言うと、待ってましたとばかりに漸くそれを口にする。それ故に、その言葉は少々食い気味になってしまっていたが、そんな事はアイシスにとって些細な問題だった。先程の、自身が参ってしまっていた時の配慮に対する分も含め、一刻も早くタチバナに感謝を伝えたかった。
「……かしこまりました」
そのアイシスの妙な迫力に対し、タチバナが少々気圧されたかの様にそう言ったのを聞き届けると、アイシスは素早く靴を脱いでテントの中へと消えていく。それを見送りながら、タチバナは突然のアイシスの立ち直りを少々不可思議に感じてはいたが、タチバナにとってそんな事は些末な問題だった。それがどの様な理由によるものであれ、アイシスが心身共に健全である事こそが、タチバナにとって何よりも大切な事であった。