第180部分
「……はい。此方も相手を認識している事を示せば、大抵の相手は襲撃を諦めるものです。また、この方法は相手との距離が遠ければ遠い程、そして相手が巧妙に姿を隠している程に効果が高い傾向にあります。要するに、相手が気付かれないと思っている程に有効な方法だという事ですね。この様な場合を考えても、やはり五感の鍛錬は有用であると言えるでしょう」
不意の出来事にも吹き出す事を何とか堪えたタチバナが、主の問い掛けに丁寧に答える。それに耳を傾けながら、アイシスは自身をその相手側に置き換えて考えていた。ついこの前に木陰から水場を覗いた時の様に、身を隠している場所から顔を出して様子を窺った瞬間、その探ろうとした相手と目が合ってしまう。その様な状況を想像してみると、それは相当に恐ろしい体験の様に思われた。
「成程。少し想像してみたけど、それは確かに逃げ出したくもなるわね。逆に考えると、かなり近付いてから見付かってしまったら、一か八かで襲い掛かって来るかもしれないという事よね? そう思うと、確かに五感の鍛錬はしておいた方が良い気がするわ」
そうしてタチバナの言葉に全面的に納得したアイシスは、それについての自身の考えを素直に口にする。その内容は若干物騒なものではあったが、こうして互いの考えを話し合う事が出来るという事自体が、アイシスにとってはとても嬉しく、そして楽しい事だった。
「はい。多くの場合はその様になると思われますが、それでも最後まで気付かずに不意を突かれるよりは、大分ましであると言えます。無論、それを相手に示す事が常に最善であるとは限らず、時には気付かない振りをする方が有効な場合もありますが、どちらにせよ他者の存在には早く気付くに越した事は無いのです。その為にも五感の鍛錬が有用な事は間違いありませんが、お嬢様は無理をしてまでそれをなさる必要はございません。その役目は私が果たしますので」
その思いはタチバナも近しいものを抱いており、それはアイシス曰く「少し饒舌になっている」口調に表れていた。自身が持つ様々な知識や技術を、心から共有したいと思える相手に伝える事が出来る。それが幸福である事は、甚だ特殊な半生を歩んできたタチバナでも変わりは無かった。尤も、当のタチバナはその事をはっきりと自覚している訳ではなかったが。
「成程、確かにその通りね。でも、私には未だそういう能力は不足しているから、その点に於いては頼りにさせて貰うわね。……というより、他の事についても頼りにし通しなのだけれども。まあ、貴方は『従者なのだから当然』だとか言うでしょうけど、折角だから言っておくわね。いつも助けてくれて本当にありがとう」
直前のタチバナの言葉を聴き終えた時点で、その最後の部分のせいで顔を随分と赤く染めていたアイシスが、その顔を更に紅潮させながら言い放つ。言い終えた頃には、アイシスの顔は最早熟れた林檎との見分けが付かない程になっていたが、それでもこの機会に伝えておきたい言葉なのであった。
一方のタチバナの表情には普段との違いは特に見られなかったが、主の言葉への返答に詰まっているという事に、その少なからぬ動揺が表れていた。最近になってアイシスが自身に礼を述べる様になり、その事には既に慣れ始めてはいたが、その多くは自身の何らかの言動に対してのものであった。その為、こうして主に面と向かって感謝を告げられるという事は、タチバナにとって初めての経験だった。
「……でも、私も立派な冒険者を目指す身として、そういった鍛錬を怠る訳にはいかないわ。まあ、そればかりをする事は出来ないかもしれないけれど。その点、タチバナは凄いわよね。暇な時に何してる? って訊かれて、自己の鍛錬って答えられる人はそうそう居ないと思うわ。でも、貴方はもう十分に凄いのだから、偶には自分が楽しむ事を考えても良いと思うわよ」
その沈黙と気恥ずかしさに耐えられなくなったアイシスは、それを誤魔化さんと怒涛の勢いで言葉を続ける。だが、そうするに到った経緯とその話の速さから、アイシスは言葉を選ぶ事に多くの時間を割く事が出来なかった為、そこには敢えて口にせずにいた考えも含まれてしまっていた。尤も、それを聴いたタチバナの視点では、その言葉に特別気にする様な部分は含まれていなかったのだが。
「お気遣い頂きありがとうございます。しかし、確かに私は鍛錬を楽しいとは思ってはおりませんが、そこに喜びが無いという訳ではありません。自身の能力を高める事、或いはそれを維持する為に努力をする事は、私にとってそう悪い時間ではないのです。ですので、私はそれがお嬢様にお褒め頂ける様な事だとも思っておりません。無論、そうして頂ける事自体は私にとって喜ばしい事ではありますが、私は自身がそうしたいと思う事をしているに過ぎないのです」
そのアイシスの言葉はとても速く、そして不明瞭な口調で紡がれていたが、それを十分に理解したタチバナは再び同じ様な口調で答える。それを聴きながら、アイシスは徐々に平静を取り戻していたが、聴き終える頃にはまたその顔を真っ赤に染めていた。少女には今自身の目の前に居るメイド服姿の人物が、これまでの生涯に於いて目にした全てのものの中で、最も格好良い存在だと思えているのであった。