第179部分
「ごちそうさまでした」
その様な思考を終えたタチバナが、今回も普段通りにアイシスの食事の様子を眺めていると、やがて完食したアイシスが、串替わりに使われていたナイフを皿に置きながらそう言う。その観察の結果、タチバナはアイシスがもう食事の質素さへの落胆を感じていないと結論付ける。
その事に対してタチバナは喜びを感じていたが、その理由はアイシスの内面の善良さを再確認した為だけではなかった。このパーティーの台所を預かる者として、都合良く食材が手に入らず持ち合わせの材料で食事を済ませねばならぬ場合であっても、主の満足度をそれ程損ねずに済むという事は心底有難かった。
「……お粗末様でした。それでは、私は直ぐに後片付けをしてしまいますので、お嬢様は楽になさっていて下さい」
今度は眠ってしまわれぬ様にお気を付け下さいね。という様に続けようとした言葉を呑み込み、タチバナがアイシスの挨拶に言葉を返す。呑み込んだその言葉は純然たる善意からのものではあったが、それが必ずしも相手にとって喜ばしいものとは限らない事を、タチバナは最近の出来事から学んでいた。その分別については自身も未だ十分に理解していないとはタチバナも考えていたが、少なくとも今回の場合は、その件には未だ触れぬ方が良い様に思われたのだった。
タチバナが発言を終えてから行動を開始するまでのほんの僅かな間から、アイシスはタチバナが何かの言葉を呑み込んだ事を何となく察していた。更に、そのタイミングと直近の出来事からの推測により、アイシスはその内容への大方の予想も出来ており、そしてそれは概ね正しかった。それらはあくまでも推測に過ぎなかったが、アイシスはそのタチバナの配慮への喜びを、若干の羞恥と共にだが感じていた。
「ええ、悪いけどお願いね」
だが、自身がその事への反応を示してしまえば、折角のタチバナの配慮を無下にしてしまう。そう思ったアイシスは、タチバナが明言した部分への返答だけを、自身の内心がその声に表れぬ様に努めながら口にする。タチバナの鋭い観察力はそこに微かな不自然を感じていたが、流石にその正体までは把握出来てはいなかった。
「かしこまりました」
そう言いながらアイシスが差し出した食器を受け取ると、タチバナはそれらを持って井戸の方へと歩いて行く。その背中を見送りながら、アイシスはぼんやりと思っていた。ああ、そう言えば井戸の水は大丈夫だったのね、と。その様な事を今更思う程度には、アイシスはタチバナが出す物の安全性を信じているのだった。
そうしてまた一人になったアイシスは、どの様に暇を潰すべきかを考え始める。無論、これまでの様に星でも眺めるという事はその第一候補ではあったが、今夜はそれ以外の事をしたいとアイシスは思っていた。とはいえ、アイシスは既にそれに飽きているという訳ではない。だが、一つの事ばかりを繰り返す事で、それへの新鮮さを失ってしまう事をアイシスは避けたかった。無論、そこには先日のタチバナの言葉の影響がある事は言うまでもない。
それならば、再び感覚の訓練でもするのはどうだろうか。そう思い付いたアイシスは、即座にその案を検討し始める。聴覚は先程やったばかりだし、視覚は……この暗さでは難しいだろう。それなら嗅覚を……と言いたい所だが、春の夜に特有の名状し難い良い匂いしか感じないので駄目そうである。味覚と触覚に関しては、そもそも鍛錬の仕方すら思い付かない。
その様な思考を経た結果、残った選択肢は聴覚の訓練のみであった。だが、それを実行する為には目を瞑る必要があり、そうした場合に待ち受ける結果をアイシスは薄々と予想出来ていた。月と星明りのみが光源である現状の暗さと、自身が感じている満腹感と疲労感。それらの事実から導かれる答えは一つであり、アイシスにはその推測が的中する可能性は高い様に思われた。
更にそんな事を考えていたアイシスであったが、先ずは今後する必要がある事を済ませてしまう事を思い付く。則ち、先に歯を磨いてしまおうという考えである。それは検討するまでもなく正しい考えであり、アイシスは今日もテントの陰へと移動すると歯ブラシを取り出し、水筒の蓋を開けるのだった。
そうして歯を磨き終えたアイシスが自身の席の方へ戻ると、そこには既にタチバナの姿があった。相変わらず仕事が速いなあ。そんな事を思いながらアイシスがその視線の先へ目を遣るが、そこには闇が広がっているだけだった。
「何を見ているのかしら?」
自身には暗闇しか見えないが、タチバナがわざわざ見ているのだからその様な事はないだろう。そう思ったアイシスが素直に尋ねると、タチバナは視線をアイシスへと移して口を開く。
「いえ。何やら獣が此方の様子を窺っている様でしたので、そちらを観察していただけです」
「うぇ。それって大丈夫なの?」
タチバナの予想外の返答に対し、アイシスは思わず妙な声を出してしまう。それはタチバナに笑いへの強い欲求を齎したが、やはりタチバナは強靭な精神力でそれを抑えるのだった。