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第178部分

「……何か仰りたい事がお有りかもしれませんが、今は夕食を頂いてしまうと致しましょう。とは言いましても、ありあわせの食材を簡単に調理しただけのものですが、本日は時間も遅いのでどうかご容赦下さいませ」


 アイシスの発言から少々の間を置いてタチバナが言う。その僅かな時間に自らの聡明な頭脳を全力で稼働させた結果、タチバナが選んだ答えは迅速な話題の転換だった。折良く食事の準備が出来ていた事もその尤もらしい理由付けとなっており、タチバナは我ながら自然な提案が出来たのではないかと考えていた。根本的な解決にはならぬ事は百も承知であったが、それが出来るのは時間のみだという事は、人の心というものに疎いタチバナでも知っていた。


「……だから、それは気にしなくても良いってば。でも、そうね、冷めてしまう前に頂きましょう」


 無論、タチバナのその発言が自身に気を遣ったものである事はアイシスも承知していたが、だからこそアイシスはそれに乗じて言葉を返す。自身の失態や羞恥の念が消えた訳ではなかったが、タチバナの優しさを無下にするという事は、アイシスにとってそれらよりも余程忌避すべき事なのであった。


だが、その優しさに本当の意味で報いるのであれば、言葉だけではなく本心でも応えなければ。そう思ったアイシスは気を取り直し、改めて意識を食事の方へと集中させる。それでも、その食事が最近のものよりも質素であるという事実に対し、僅かな落胆をも感じない事はアイシスにとっては至難の事ではあったが、少なくともそれ以前よりも気が楽になった事は確かだった。


 そうして、アイシスが料理の方へ歩き出すと、それに先駆けてタチバナが料理の許へと高速で移動する。そんなに急ぐ必要があるだろうか。そう疑問に思ったアイシスであったが、その直後のタチバナの動作によって、直ぐにそれを理解するのだった。


「どうぞ」


「ありがとう」


 そう言いながらタチバナが差し出した皿を、アイシスは礼を言いながら受け取ると、それを持って自らの席の方へと戻る。それらの動作には昨日の様な慎重さは見られなかったが、元よりそれを必要とする様な行動でもない事は確かであった。


 そうしてアイシスが無事に席に戻ると、それに少し遅れてタチバナも席に着く。その手に持つ皿に載っているパンはやはりアイシスの物よりも巨大であったが、それらの大きさの差は従来よりも少しだけ小さくなっていた。尤も、当のアイシスはその事に全く気付いてはいなかったが。


「それじゃあ、頂きます」


「頂きます」


 やはり昨日程のテンションの高さは感じられないものの、それでも元気の良い声でアイシスが食前の挨拶をすると、いつもの様にタチバナが小声でそれに続く。その後、改めてアイシスが皿の上の料理を観察すると、そこにあるのは見慣れたパンと干し肉であった。その事に対し、アイシスは改めて些かの落胆を感じずにはいられなかったが、首を小さく横に振ると直ぐに思い直す。


 最近は偶々良い食材に恵まれただけであり、本来であれば食卓に毎日大好物が出て来るなんて事は無く、現在は旅の道中なのだから尚更である。その様な合理的な思考を経た事で、アイシスは漸く目の前の料理を本来の視点で見る事が出来ていた。


 今、自分の目の前にあるのは、素朴だが優しい味わいのいつものパンと、保存食ではあるが塩味が程良く効いていて美味しい干し肉に、タチバナが更に一手間を加えたものだ。そう考えている今のアイシスの頭の中には、もう落胆の気持ちなどは微塵も無かった。眼前の食材とそれを調理したタチバナへの感謝と、目の前の料理に向けられた食欲だけがそこには存在していた。


 それに導かれたアイシスがパンに噛り付き、そして笑顔を浮かべる瞬間を見届けた事で、漸くタチバナも自身の食事を開始する。先程までアイシスの表情に浮かんでいた落胆の意味が理解出来る程度には、昨日の料理よりは味が劣っているのは事実だろう。かつての鍛錬の賜物として常人よりも遥かに鋭敏である味覚を以て、タチバナは自らが食した料理を客観的にそう分析する。


 だが、その分析よりも高い満足感を自身が得ている事にも、無論タチバナは気付いていた。つい昨日までの自身は食事に味を求めていなかった事もあり、その習性の名残だろうか。タチバナは瞬間的にその様な事を考えたが、それが事実ではない事にも既に気付いていた。


 その時々の状況や感情が、味覚が感じる味へと影響を与える。かつての自身が一笑に付したその説を、厳密には多少経緯が異なっているとはいえ、自身が実感している事をタチバナは否定出来なかった。自身の味覚は正しく味を感じ取っており、影響を受けているのは意識の方であるのだから、やはりその説は正しいとは言えないだろう。等と内心で強がってみた所で、タチバナは過去の自分の無知を恥じずにはいられなかった。


 だが、その羞恥の念とは裏腹に、何やら前向きな気持ちが湧いている事もタチバナは感じていた。現在の自身の状況とその気持ちの剥離から、タチバナにはその正体が直ぐには分からなかったが、いつもの様に高速で食事を終える頃には判明していた。向上心。アイシスのお陰で最近になって久しく覚えたその感情を再びその胸に抱きながら、タチバナは自身に未だ成長の余地がある事を密かに喜んでいた。

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