第177部分
「……ありがとうございます。それでは、夕食のご用意が出来るまでもう暫くお待ち下さい。その間は……本日に限っては休息に充てられた方がよろしいかと存じます」
タチバナはアイシスの表情から落胆の色を感じ取ってはいたが、同時に汲み取った主の発言の意図の方を優先して礼だけを返すと、先程と同じ言葉を繰り返す。自身は他人の感情を読み取る事があまり得意ではない。常々そう考えていたタチバナであったが、アイシスに関しては素直にそれを表してくれる事が多く、従者としては非常に助かっていると思っていた。だがそれだけではなく、タチバナはその事を少し羨ましくも思っていた。
「ええ。今日は長く走ったりしてちょっと疲れたから、大人しく休んで待つ事にするわね」
タチバナの助言に素直に従い、アイシスは大人しく休む旨を宣言する。実際に、アイシスは「時間停止」の魔法を使用した日を除けば、少なくとも肉体的なという意味ではだが、今日程に疲れたを感じた事は初めての経験であった。とはいえ、それでも未だ若干の余力が自らの身体に残っている事はアイシスも感じており、自身の新たな肉体とそれを与えられた奇跡に対し、アイシスは改めて感謝をせずにはいられなかった。
「かしこまりました。ご用意が出来ましたらお呼び致しますので、もしよろしければお休みになってしまっても構いませんよ」
本日も何処からか用意されていた自身の席へと移動するアイシスに向け、タチバナがそう声を掛ける。これまでの旅路に於いて、実際にアイシスは休憩中に眠ってしまっていた事が幾度もある。その経験から導かれた純粋な善意による発言ではあったが、それを聴いたアイシスにはそうは思えないのであった。
「あのねえ。そんなに直ぐに眠ったり起きたり出来るなら苦労はしないわよ」
その言葉を軽い嫌味の様に捉えたアイシスは、タチバナの方へ振り返ると少々呆れた様な口調で答える。とはいえ、その言葉にタチバナが悪意を込めているなどとは、アイシスとて全く考えてはいなかった。それはある種のコミュニケーションの一環であり、それを目的とした言葉をタチバナが発してくれた事に内心では強い喜びを感じているのだった。尤も、それ自体は完全な勘違いではあるのだが、仮にタチバナの意図を正しく把握出来ていたとしても、恐らくアイシスは同じ感情を抱いていただろう。
「……そうですね、失礼致しました」
いや、実際にこれまでに何度も寝ていただろう。相手がアイシスでなければそう指摘したい所であったが、主に対してその様な真似をする事はタチバナには出来ず、そしてするつもりも無かった。やはり、言葉によるコミュニケーションとは難しい。その様な事をタチバナはただ思うだけだった。だが、やはり概ねの感情が表れている主の表情を見る限り、言葉程にはアイシスも悪く思ってはいない様にタチバナには思われるのだった。
「いえ、別に構わないわ。それじゃあ、私は少し休んでいるから、ご飯の用意が出来たら呼んで頂戴」
「かしこまりました」
自身の席という名の石に腰を掛けたアイシスがそう言うと、タチバナは短く了承の意を伝える。やはり、アイシスは偶に聞き慣れない単語を使う事がある。その事がタチバナには多少なり気にはなったが、わざわざ指摘する様な事はしなかった。互いが互いの全てを知っている訳ではないのだから、その様な事はいくらでもあるだろう。そうタチバナは考えていた。
そうして会話が途切れた事で、今日も空でも眺めて夕食の完成を待つ事にしたアイシスが視線を上げて周囲を見渡すと、つい先程までは眩しく感じていた西日も既に完全にその姿を隠していた。地平の向こうから僅かな茜色の光が漏れ、それ以外の空は群青に染まっている。その神秘的な光景を眺めているうちに、アイシスは自身の意識がぼやけてくる事を感じていた。
「お嬢――、様」
やがて夕食の調理が完了したタチバナがアイシスへと声を掛けようとするが、視線を向けた事で目に入った主の様子にその言葉を呑み込む。それ見た事か。思わずそう言いたくなる程見事なまでに、アイシスは自身の席の上で首を垂れていた。
とはいえ、それはアイシスがやはり疲労を感じている事を意味しており、それを労るべきであるという事は、タチバナの業務に於ける見解と感情の双方に於いて一致していた。焼いていたパンと干し肉を火から離すと、タチバナはそれをトレーに置いてアイシスの方へと歩み寄る。そして右手をアイシスの肩の辺りまで伸ばすと、そこで一度躊躇った後、可能な限り優しくその肩を叩きながら口を開く。
「お嬢様、夕食のご用意が出来ましたよ」
その優しい刺激と声に、身体をピクリと反応させながらアイシスが目を開く。そう深い眠りに就いていた訳ではなかった為、アイシスは自身が眠ってしまっていた事も直ぐに把握し、そして自身の先程の言葉も鮮明に思い出す事が出来ていた。
「ええ、うん、ありがとう。その……」
その事を含む色々な意味での強い羞恥の念から、アイシスは早口で何とか礼を述べる事は出来たものの、その後言葉を詰まらせてしまう。そして耳まで真っ赤に染めて俯くアイシスに対し、何と声を掛けるべきかをタチバナは知らなかった。その豊富な知識に頼る事が出来ず、かつ可及的速やかに声を掛けるべきという状況に於いて、タチバナはこれまでの生涯でも指折りの速度でその頭脳を働かせると、俯く主に向けてその口を開くのだった。