第176部分
「それでは、都合良く井戸という水源が見付かった事ですし、この近くにテントを張って夕食の準備をすると致しましょう」
謎の井戸に関する一連の調査を終え、その結果について主からの了解も得たタチバナが言う。元よりタチバナの言う事に反対するつもりが無いアイシスであったが、それを抜きにしてもその言葉には異論の余地は無かった。切りが良い、という事もあるが、アイシスの目を眩ませ続けた西日も既に沈む寸前であり、拠点を構えるまでに時間的な余裕があまり無い事は明らかだった。
「分かったわ。それじゃあ、私は近くで薪を探して来るわね」
やはり、自身が薪を集める事について、タチバナからの言及は無かった。その事に喜びを感じた為にやや弾んだ声でそう答えながら、アイシスは荷物を井戸枠に立てかける。尤も、仮にタチバナがそれを頼む旨を口にしたとしても、恐らくアイシスは同様の声で答えたであろうが。
「お願い致します。遠からず暗くなってしまうと思いますので、今回は食材については探さずとも――」
「心得ているから大丈夫よ。それじゃあ、行って来るわね」
「失礼致しました。それでは行ってらっしゃいませ」
自身の仕事へと向かおうとする主へとタチバナが助言をしようとするが、アイシスはそれを遮る。無論、それは余計な事を言うなという意思表示という訳ではなく、あまり時間的な余裕が無い事を知るが故の行動であった。タチバナもその事を察し、それ以上の引き止めはせずにアイシスを見送るのだった。
そうしてタチバナの居る井戸から離れたアイシスは、視線を下側へと向けたままで周囲を見渡しながら歩いていた。普段よりも時間が遅いとはいえ、未だ完全に日が沈んだ訳でもない現状では、落ちている木の枝を見落とす様な事は無かった。それ故に、木々がそれ程密集していない為に拾う頻度は高くはなかったが、アイシスは特に苦労をする事も無く質の良い薪を集める事が出来ていた。
これならば、ついでに食材を探す事も出来ていたのでは。調子良く進む仕事からアイシスはふとその様な事を思ったが、直ぐにそれを自ら否定する。確かにそれは可能かもしれないが、場合によっては日没までに戻れない可能性は十分にある。そしてそうなってしまった時、それ程夜目が利く訳ではない自身では、何らかの危険に遭う可能性を否定する事は出来ないだろう。
つまるところ、タチバナは自身の身を案じてあの様に言ってくれたのである。その様な思考を経たアイシスには、たとえ今日の夕食が少々寂しい物になるとしても、その心配を裏切る様な真似は決して出来なかった。既にその上部だけを地平から覗かせている陽の光を真横から浴びながら、アイシスは自身がすべき仕事を急いでこなすのであった。
そうして薪を集め終えたアイシスが井戸の方へと戻って来ると、やはり既に本日の拠点の設営が済まされていた。それはアイシスにとって既に見慣れた光景ではあったが、やはりそれを目にする度、タチバナの仕事の速さへと感心してしまう。いい加減に慣れるべきだろうか。そんな事を思う一方、アイシスはそれにいつまでも感動する自分でありたいとも思っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
アイシスがそのまま井戸の付近まで近付くと、その蓋を台所代わりにして作業をしていたタチバナが帰還した主へと声を掛ける。こうして毎度タチバナに先に挨拶をさせている事に対し、アイシスは些かの申し訳無さを感じてはいた。とはいえ、それを防ぐ為にはもっと遠くから大声で先に挨拶をすれば良いだけである事は、無論アイシスも承知していた。それでもそうしないのは、アイシスがその言葉に特別な感情を抱いている為であった。
「ただいま、タチバナ」
アイシスは歩きながらそう答えると、見慣れた石造りの簡易的な竈の傍に、抱えていた薪と火付け用の枯れ草を下ろす。この様な何でもない遣り取りこそ、かつて少女が望み続け、そして叶わなかった願いであった。それ故の強い喜びを感じながら、アイシスは思っていた。たとえタチバナと共に居る事や、それに付随する全ての事が、いつか自身にとって心から当たり前になったとしても、この事への感動だけはいつまでも残り続けるだろう、と。
「ありがとうございます。それでは、夕食のご用意が出来るまでもう暫くお待ち下さい……と申し上げたい所なのですが……」
無論、そんな事は知る由も無いタチバナは主の仕事に対しての礼を述べると、その後珍しく歯切れの悪い言葉を口にする。その事にアイシスは一瞬だけ驚きを感じるが、その内容と最近の自身の様子を併せて考えれば、タチバナの言わんとする事を推測する事はそう難しくはなかった。
「ああ、新鮮な食材が手に入らなかったのね。時間も無かった訳だし、そんな事は別に気にしないでも良いのに」
最近は食事を非常に楽しみにしている主に対し、それを十分に満足させられる料理を出す事が出来ない。その事を気にして申し訳無さそうにしているタチバナを気遣い、アイシスは主としての寛大な態度を示す為の言葉を掛ける。だが、声にはそれが現れない様に気を付けたものの、自身の表情に若干の落胆が滲み出てしまっている事に、当のアイシスは気付いていないのであった。