第175部分
「……本当にただの井戸なのかしら?」
そう口にしたアイシスが改めてその井戸を観察すると、それはかなり年季が入っているというか、腐食が進んでいる様に見えた。周囲全てを自然に囲まれているだけの事はあり、その蓋や外周部分には苔が生している等、その浸食を長年受けてきたかの様にアイシスには見受けられた。当然ながら使用された形跡は見当たらなかったが、その作り等はごく普通の井戸である様に思えた。
少々離れた今の位置からでは、この程度の事しか分からない。そう思ったアイシスが井戸へと近付こうとすると、タチバナがすっとその前に移動して主の行く手を遮る。
「その役目は私がお引き受け致しましょう。恐らくはその様な事はございませんが、罠である可能性も未だ残ってはおりますので」
その行動はアイシスにとっては意外なものであったが、続けてタチバナが口にした言葉を聴き、アイシスは直ぐに納得する。その後半部分……つまり、恐らくは罠ではないだろうという事はアイシスも同意見であり、それ故に自身で井戸を調べても問題は無いと思った故の行動ではあったのだが、確かにその可能性が完全に無いという訳ではなかった。それならば、井戸を調べるのはタチバナの方が適任であるという事にはアイシスも異論は無かった。無論、タチバナは従者なのだから主の為に危険を冒すべきと考えた訳ではなく、いざという時の対応力に於いてはタチバナの方が優れている、という考えからである。
「ええ、そうね。それじゃあお願いするわ」
そのアイシスの承諾を聞き届けると、タチバナは無造作に井戸へと近付いていく。そして、改めてそれを間近で観察してみるが、そこから見て取れる情報はアイシスが既に得たものと大した差は無かった。ただ一つの点を除いては、であるが。
その井戸の一通りの観察を素早く終えたタチバナは、一つの大きな違和感を覚えていた。前述の様に自然の浸食を受け、全体的にかなりの腐食が進んでいるにもかかわらず、備え付けられた木桶だけがタチバナには妙に目新しく感じられた。いや、実際にそれだけが一切の腐食を免れていた。
最近になって誰かが取り換えたとでもいうのだろうか。その様な事をタチバナが考えたのも自然な事であったが、その考えは直ぐにタチバナ自らの手……いや目によって否定される。腐食が進んでいる木の蓋と井戸枠の接触面を見る限り、この井戸がかなりの期間に於いて誰にも使われていない事は間違いなく、使う事も無い井戸の木桶だけを交換する理由など、タチバナには存在するとは思えなかった。
では、何故その木桶だけが腐食を免れているのだろうか。多くの人間であれば次はその様に考えるだろうが、そんな事はタチバナにとってはどうでも良い事だった。それが何らかの魔法によるものであれ、或いは薬品によるものであれ、状況的に罠である可能性が低い以上、木桶がそのまま使える事はタチバナにとっては一つの僥倖でしかないのであった。
とはいえ、先の自身の言葉の通り、未だ罠である可能性が完全に消えた訳ではない。そう考えたタチバナは荷物を井戸枠に立てかけると、いよいよ井戸の蓋へと手を伸ばす。タチバナは先ずはその一辺を右手で掴むが、そこに少し力を入れると直ぐに左手も伸ばして別の一辺を掴む。そしてそのまま両腕に力を込めると、井戸枠に引きずらない様にそれを浮かせ、井戸の半分が露出する程度に移動させる。
タチバナが何かに両腕を使うのを、私は初めて見たかもしれない。そんな事をアイシスが考えている頃、タチバナは別の事を考えていた。その外見の印象から、掴んで力を込めた際に蓋が崩れてしまうかもしれないと考えていたが、その様な事が起きなくて良かった。それは蓋を引きずらない様に動かした事と同様、その井戸の中の水を飲む事になるかもしれないアイシスへの配慮だった。そこに木くずが多少落下したとて、健康への影響などは皆無と言っても良いだろう。タチバナ自身ではそう考えてはいたが、それを主に飲ませる事はまた別の話なのであった。
そうして露出した井戸の内部を、タチバナが慎重に覗き込む。無論、蓋を開けた時点で何も起きなかった事から見ても、そこに罠等が存在する可能性は限りなく低いだろうとはタチバナも考えていた。だが、主であるアイシスの行動を遮ってまでこの作業を引き受けた手前、万が一にでも失態を犯す訳にはいかなかった。
「……やはり、何の変哲もない井戸である様ですね。中にある水が安全であるかまでは現時点では不明ですが、それは使用する直前にでも確かめれば良いでしょう。幸い、先程の水場で補給した水が未だ豊富に残っておりますので、もしこの井戸が使用出来なくても未だ深刻な問題にはなりませんので」
「分かったわ、ありがとう」
一連の観察を終えたタチバナが再び蓋を閉めながらそう言うと、短い返事をしたアイシスも井戸の方へと歩み寄る。先程までは違和感の塊であり、僅かな不気味ささえ感じていたその井戸も、調査を終えたタチバナがそう言ったのであれば、アイシスにとってもそれは既に単なる井戸でしかないのであった。