第174部分
「……何と申しましょうか。やや顔を下に向けてはおりますので、通常よりも視点を下げている事は確かなのですが、その状態から西日が直接目に入らない限界までは視線を上げている……とでも言えば良いでしょうか。……些か説明が難しいのですが、西日を一見した際に受ける印象よりは遠くを見渡す事が出来る、とでも思って頂ければ良い……かと存じます」
当人にしては珍しい程に言葉を詰まらせながら、タチバナがアイシスの問いに答える。そのやや自信無さげな口調と彼我の位置関係により、アイシスにはその全てをはっきりと聞き取る事は出来なかった。だが、その事に対してアイシスは寧ろ喜びを感じていた。聞き取れた部分から話の概要は十分に理解する事が出来ていたし、こうしてタチバナの人間らしさを感じられる事が、アイシスには何だか嬉しい事に思えたのであった。
「成程ね。でも、どれどれ……と試してみるのは今は止めておくわ。貴方が見付けた、その何かしらを早く確かめに行きましょう」
直近のタチバナの発言とは対照的にはっきりと、そして何やら楽しげにアイシスが答える。タチバナの言葉通りに西日の方を見る事を試してみたい、という気持ちが無いという事はなかったが、それをして目を眩ませる事によってまた進行を遅らせる事をしたくはなかった。それは、現在は直接は見ていないとはいえ、視界に映る風景の茜への染まり具合から日没が近いだろうという論理的な推測と、タチバナが見付けた何かを出来るだけ早く確認したい、という素直な思いによるものだった。
「かしこまりました」
そのアイシスの言葉から早く先に進みたいという思いを汲んだタチバナは、そう短く答えると先に進む事に集中する。とはいえ、無論タチバナは周囲への警戒や後方のアイシスへの配慮を緩めるという訳ではなかった。その進行への集中は自身の為ではなく、アイシスが会話に意識を割かずに済むようにする為のものだった。
その配慮の全てを汲み取ったという訳ではなかったが、結果としてはタチバナの目論見通りにアイシスは黙ってその後を付いて行く。それは現在のアイシスの欲求から考えれば自然な事ではあったが、その理由などには両者共に興味は無かった。ただ、こうして効率的に前に進む事が出来ていればそれで良かった。
斯くして、またいつもの様に沈黙の旅路が始まったのであったが、その時間もアイシスにとっては悪くないものだった。眼前にタチバナの背中があるという、普段とは異なる景色故の新鮮さもその理由の一つではあったが、その「いつもの様」な時間そのものが、アイシスにとってはかけがえのない程に得難いものだった。
そうして歩いている間に、既にタチバナは件の物体の正体をその目に捉えていたが、やはり直ぐにそれを口にする事は無かった。だが、今回は別に主の感動をより高める、などという感動的な理由による行動ではなかった。それを口にした所で、アイシスが実物を確認するまでには未だ時間が掛かる事は変わらない。それならば、無駄に主を焦らす様な事を言う必要は無いだろう。その様に考えられた故の選択であった。
そして、また暫しの時が過ぎた頃、ふとタチバナがアイシスの眼前から右側へと移動して足を止める。それにより、当然ながら不意に西日を正面から浴びる事になったアイシスも、別の理由からではあるが同様に足を止める。視点を下げていた為に直接それが目に入る事は無かったものの、その突然の出来事によるアイシスの驚きは決して小さくはなかった。
「何よ? 突然どうした……の……」
その事による驚きの声と、タチバナの突然の謎の行動に対する疑問を口にしようとしたアイシスであったが、それを言い終える前に言葉を失う。それだけ、アイシスの眼前に広がった光景は想像を超えるものだった。
「あちらが、先程私が見付けた物でございます。最初に目にした時の直後には、既に薄々とその正体には気付いてはいたのですが、まさかこの様な地にこの様な物があるとは思いませんでしたので、こうして間近で確認出来るまでは口には致しませんでした」
アイシスの右斜め前に立つタチバナが淡々と話すが、未だ驚愕の中にいるアイシスにはそれを十分に吟味する事は出来なかった。ただ、今の自身のものと近い思いをタチバナが抱いていた、という事だけを理解する事が出来ていた。
「……何でこんなものが此処にあるのかしら」
誰にともなくそう言ったアイシスの眼前に広がる光景は、決して摩訶不思議なものという訳ではなく、絵面で言えば間違いなく地味な物だった。にもかかわらず、アイシスを言葉を失う程に驚かせた物。その正体は、井戸であった。
周囲を見渡しても集落はおろか、人工的な建造物は一切見当たらなかった。向かって左側、つまり南側には深々とした広大な森林のみが存在し、それ以外の方向には木々が疎らにある荒野が広がるのみである。その様な、自然そのものとさえ思える風景の中に、その井戸だけがぽつりと佇んでいた。そのあまりにも地味な光景とは裏腹に、その状況にはアイシス達も強い違和感を覚えざるを得なかった。