第172部分
「……え」
そのタチバナの答えがあまりにも意外であった為、アイシスは惚けた様な口調でそう口にするのが精一杯だった。とはいえ、アイシスはタチバナの配慮それ自体に対して驚いた訳ではない。これまでにも様々な場面に於いて、タチバナが自らに何かしらの配慮をしてくれていた事にはアイシスも気付いていた。それでも、アイシスが言葉を失う程の驚愕を味わったのは、それをタチバナが正直に口にした事に対してであった。
「……それは、どうも……ありがとう」
その驚きが収まるに連れて、アイシスには様々な感情が新たに湧いてきていた。タチバナの配慮と、それを正直に言ってくれた事への喜び。自身の何気ない質問によって、それを無理に口に出させてしまった事への申し訳無さ。そして、原因が自身でもはっきりとは分からない気恥ずかしさ。それらが内心で混ざり合った結果、アイシスには小声でごにょごにょと礼を述べる事しか出来なかった。
「いえ。私とした事が余計な事を――」
「それは違うわ! 貴方のその配慮を、私はとても嬉しく思っているもの。森の果てが視界に入った時の感動を、私はきっといつまでも忘れる事は無い……という位にね。だからと言って、無理に気を遣うのは止めて欲しいけど、もしタチバナがそうしたいと思ってしてくれるのなら、それがどんな事でも私には嬉しい事よ」
どうやら、自身の配慮はあまり好評ではなかった様だ。アイシスの反応が薄く見えた事からそう判断したタチバナが、その事について謝罪しようとすると、アイシスはわざわざ立ち上がりながら大声でそれを遮る。その勢いのままに自らの思いを吐露するアイシスの迫真の様子に、タチバナはそれが自身を気遣う為の嘘ではない事を感じ取る。それにより自らの軽率な発言を軽く悔いながら、やはり他人の感情を正しく察する事は難しいとタチバナは感じていた。
「……ありがとうございます。どうやら先程の走りによる疲労も和らいできた様ですので、そろそろ今夜の拠点を探しに参りましょうか」
アイシスの思いに対する礼を述べると、タチバナはやや唐突に話題をこれからの事に変える。その口調と表情からは感じ取る事は出来ないが、先の自身の回答から始まった一連の流れにより、タチバナは自身の羞恥心が大分増している事を感じていたのだった。
「……そうね。それじゃあ、これから森の入り口を探すのかしら?」
そして、それはアイシスも同様であった。やや唐突な話題の転換であるとは思いながらも、アイシスはそれに乗って話を進める事にし、ついでとばかりに抱いていた疑問をぶつける。これまでは北上をする事しか考えていなかった為、この後にどうするかの展望をアイシスは一切持っていないのであった。
「そうですね。それを平行して行う事は良い案ではありますが、これより進む事になる森林は、これまでの様な平原等とは異なる危険な土地ですので、実際に入るのは翌朝以降にすべきでしょう。ですので、このまま森林の北側を西に進みつつ、拠点を作る事に適した場所を探すのがよろしいかと思われます」
双方の合意の下に話題が旅の事へと変化した結果、先程までが嘘の様に淡々とした口調でタチバナが言う。その内容の尤もらしさも含めてではあるが、アイシスはその事に奇妙な安心感を覚えていた。無論、先程の様な配慮がそうでないという訳ではないが、アイシスはそこにタチバナらしさを見出さずにはいられなかった。
「成程ね。それじゃあ、早速西に向かって出発しましょう。陽も大分傾いて来たから急がないとね」
タチバナからの助言に対し、アイシスには基本的に反対するつもりは無かった。それ故にあっさりとそう答えると、先程投げ出した荷物を拾って歩き出す。丁度進行方向である西の方からは、その言葉通りに低くなった陽光がアイシス達を茜に染めていた。
その眩しさにより、アイシスは前方を良く見る事が出来なかった。それ故に思う様に足が進まないアイシスの様子を見て、タチバナはそっとアイシスの前に出る。急に眩しさが和らいだ事でアイシスもそれに気付いたが、その件についてタチバナは何も口にする事は無かった。その配慮への感謝と喜びを同時に感じながら、これでこそタチバナだ、なんて事をアイシスは思っていた。
「ありがとう。でも、貴方は平気なのかしら? 私は眩しくてまともに前も見れないのだけど」
あまり大袈裟にしてしまうと、また却って気を遣わせてしまうだろう。その様な考えからなるべく軽い調子で礼を述べると、アイシスはふと浮かんだ疑問をそのまま口にする。思えば、少女にはこの様に西日の方へ向かって前進した記憶は無かった。
「はい。コツという程のものでもありませんが、眩しいのは太陽の光なのですから、それを見ない様に視点を下げれば良いのです。尤も、そうすると当然前方への注意が疎かになってしまいますので、現時点ではその能力により秀でている私が前方を担当するべきだと判断致しました」
さも当然の様にタチバナがそう言うが、その言葉の節々にも自身への配慮がある事をアイシスは感じ取っていた。そして、先程までの眩しさとの落差により見えづらくはあったが、その背中からは強い頼もしさを感じていた。その優しさと頼もしさに、改めてタチバナに礼を言いたいアイシスであったが、連続でそれを口にしては、却って気を遣わせてしまうだろうとそれを呑み込む。自身のそれもタチバナへの立派な配慮である事に、対人の経験に乏しいアイシスは未だ気付いてはいなかった。