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第171部分

 思わず全力で駆け出したアイシスであったが、思えばそんな事はもう十年以上も行った事は無かった。幼少期には野山……とは言わずとも屋外を駆け回った記憶もあるが、入院をして以降は勿論、体調を崩し始めてからは、その様な事をする機会は終ぞ訪れなかった。その割には現在、自身が違和感を感じる事も無く走る事が出来ており、少女は自らの新たな肉体に感謝せずにはいられなかった。


 そんなアイシスの直ぐ後ろを、タチバナはその様子を気に掛けながら走っていた。直前にアイシスが見せた疲労の色から考えても、この疾走は少々無茶な行いであるとタチバナには思えた。それでも、深刻な体調の変化が顕在化でもしない限りは、アイシスの意思を優先する事がタチバナの考えだった。無論、もしその様な事態になった際には自身が即座に対応が出来るよう、心身共に十分な備えをしてアイシスの後に付いているという前提での話である。


 そうして両者が荒野を駆けて暫しの時が過ぎた頃、遂にアイシス達の身体は西の森林の果てというゴールラインを越えるのだった。無論、それが未だこの旅の通過点に過ぎない事はアイシスにも分かっていたが、それでも、今の時点では本当に目的地に辿り着いたかの様な感動を覚えていた。


 だが、その喜びに浸る余裕は今のアイシスには無かった。無事に森林の果てを越えたアイシスであったが、その瞬間から速度を急激に落とすと直ぐにその足を止めてしまう。その後暫くは膝上に手を突いて荒い呼吸をしていたが、やがて地面へと崩れる様に座り込む。


「お嬢様?」


 それを見たタチバナがそう言って駆け寄ろうとするが、アイシスはそれを手で制する。そして荒いままの呼吸を二、三度すると、やや苦しそうに口を開く。


「……大、丈夫。ちょっと、疲れた、だけよ。慣れない、事は、するものじゃ、ないわね」


 本当は未だ話すのも少し辛いアイシスであったが、タチバナを安心させる為に何とか言葉を紡ぐ。だが、それが以前アイシスが気を失う直前に言ったものと似通っていた為、それを聴いたタチバナを即座に安心させるには至らなかった。暫しの間、タチバナは黙したままアイシスを観察し続けていたが、実際に疲労以外の問題が無いと判断すると漸くその口を開く。


「……どうやらその様ですね。それでしたら、その様な激しい運動の後には、今のお嬢様の様に直ぐに座って休むのではなく、徐々に運動の強度を落としていく方が良い……という話を聞いた事がございます。生憎、私はその様な強い疲労を感じる程に身体を動かした事がありませんので、実際にそれが正しいかを実感した事はございませんが」


 アイシスとは対照的に、一切の疲労の色を見せる事無くタチバナが言う。少なくとも自身と同等の速度で同等の距離を走った筈ではあるが、最早アイシスはその事に疑問を抱く事は無かった。その後のタチバナの経験談についても、タチバナなら仕方が無いという程度にしか感じなかった。


「……へえ、そうなの、ね」


 その結果、アイシスは間の助言にだけ納得の反応を示すが、既にそれを実行する気力は失われていた。現在の疲労がある程度回復するまでの間は、とてもではないが立ち上がるつもりにはなれそうになかった。


 その事は、タチバナもアイシスの様子から直ぐに察しており、主の休憩にそれ以上口を挟む事は無かった。そうして、アイシスは暫しの時を地べたに座り込み、荷物も投げ出して休んでいたが、それを不衛生などとは思わなかった。一日の終わりに感じるものとはまた別の疲労感と、奇妙な解放感の様な感覚を同時に味わいながら、ただ黙って自身の体力の回復を待っていた。


「ところでタチバナ。貴方の視力なら私より先にこの事には気付いていた筈よね。どうして教えてくれなかったのかしら?」


 やや茜に染まり始めた空の下、全力疾走の疲労からは概ね回復しつつあるアイシスが、突如としてタチバナに尋ねる。その内容自体は予め想定されていたものではあったが、タチバナとしては不意を突かれる格好になった事は否めなかった。その問いにタチバナは即答する事が出来なかったが、自身の発言が唐突である事を自覚していたアイシスは、それが理由なのだろうと考え気にする事は無かった。


 だが、仮にその質問を待ち構えていたとしても、やはりタチバナは即答する事が出来なかっただろう。予め想定していた問いであるにもかかわらず、タチバナは未だその答えを用意出来てはいなかった。アイシスに対しては基本的には偽りを述べるつもりは無い。それがタチバナの考えではあったが、この問いに対して正直に答える事は、タチバナには妙に恥ずかしい事の様に思えていたのだった。


「……いえ、その事にはご自身で気付かれた方が……よろしいかと思いまして」


 とはいえ、主が自身に対して質問をしたのだから、あまり答えを待たせる訳にはいかない。その様な考えが頭の一部を占めている状態では、さしものタチバナであっても、短時間で前述の自身の信念をも納得させる答えを考案する事は出来なかった。その結果、タチバナにしては珍しい程に歯切れの悪い口調で、事実を中途半端に伝える事になってしまう。だが、それ故に感じる事になった強い羞恥の念を、タチバナは強靭な精神力で表情や声には滲ませずにいるのであった。

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