第170部分
「かしこまりました」
その笑いが声に出てしまわぬ様に注意しながら、タチバナがアイシスの言葉に応じる。その返事を聴いた瞬間、タチバナが自身の荷物を拾うのも待てずにアイシスが歩き出した方向は、現在の目標となる北西よりも少々北側へと寄っていた。無論、その事にタチバナは気付いていたが、それをわざわざ指摘する様な事はしなかった。それにはアイシスの情熱に水を差したくないという理由もあったが、南や東に進むのでもない限りは、多少の進路のずれに大した問題は無いとタチバナは考えていた。
直ぐに自身の荷物を回収し、いつもの様にすっと加速してアイシスの右に並んだタチバナであったが、その為に普段よりも些かの労力を必要とした様に感じていた。気が逸っている為に早足になっているのか、或いはアイシスも既に旅慣れてきているのか。その理由は現時点ではタチバナにも分からなかったが、それはさして重要な問題ではなかった。理由がどうであれ、旅の進行が早まる事はタチバナにとっても有難い事だった。無論、それはアイシスに無理のない範囲での話であり、タチバナは同じ速度でアイシスの隣を歩きながらも、その様子には十分に気を配っているのであった。
その様なタチバナの配慮に、アイシスは全く気付いてはいなかった。昼食前後の穏やかな気分とは異なり、今のアイシスの内心は大部分を前に進む情熱が占めていた。それはアイシスの意識を前方へと集中させ、周囲への注意にはやや欠けた状態にさせていた。とはいえ、アイシスがその様に前のめりになっているのは、根本にタチバナへの絶対的な信頼が存在する為である。周囲への注意がやや疎かになっていても、アイシスは自身の右側に強い安心感を覚え続けており、それ故に前方へと集中する事が出来ているのであった。
一方のタチバナも、それと概ね同様の考えを抱いていた。とはいえ、タチバナもアイシスに対して安心感を覚えている、という訳ではない。側方や後方への警戒は自身が担当すれば良いのだから、アイシスには今の様に前方へと集中して貰っていて構わない。自身ならばそれが可能であるという強い自負の下、タチバナはその様に考えているのだった。無論、足元や頭上への注意までをも怠られてはタチバナも困ってしまうが、その辺りにはアイシスも十分に注意を払う事が出来ていた。
その様な、現時点での目標地点が近い事による気の逸りや、互いへの信頼等の様々な要素が噛み合った結果、一行は非常に効率良く歩を進める事が出来ていた。とはいえ、その最中にもタチバナは魔物等の障害となり得る存在を幾度も感知しており、現時点でそれらと接触せずに済んでいる事には運の要素があった事は否めなかった。やはり、アイシスには幸運が付いているのかもしれない。それ故にそんな事を考えるタチバナであったが、それが悪い事ではないのは確かだった。
斯くして二人が荒野を歩き続け、暫しの時が経過した頃だった。傾き掛けた陽の光を浴びながら、タチバナはその優れた視力から、とある事にいち早く気付ていた。それは一行にとって喜ばしい事であり、殊にアイシスにとっては更にそうであろう情報だった。それを直ぐにアイシスに伝えるべきだろうか。そう考えるタチバナであったが、直ぐにまた人知れず、やや自嘲気味な微笑みを浮かべる。
そんな事を考える事自体が、本来であればおかしい事なのだ。自身はアイシスの従者なのだから、自身が知り得た有益な情報は直ぐに報告して然るべきである。それを事もあろうに、主の感動をより高める為、などという理由で隠匿しようとは、かつての自身では考えもしなかっただろう。そういった思考からの自嘲ではあったが、やはりその変化が悪いものであるとはタチバナには思えなかった。
「……あ、あれって、もしかして!?」
結果として、一行は沈黙を保ったまま更に歩を進めていたが、やがてアイシスが前方を指差しながら声を上げる。旅を始めて数日の少女にしては明らかに速過ぎる進行であった為か、その初めの方の声には疲れの色が見えていたが、終わり際にはそれは強い興奮を感じさせるものになっていた。
その指の先に見えたのは、一行の西側に長く続いていた森林の果てを感じさせる景色であった。高さのある緑色が途切れ、その先の平原らしき地面が露わになっている光景が、アイシスの瞳には映されていた。それは長かった北上という遠回りの終わりを意味しており、その事は疲労したアイシスのテンションを再び最高潮にする十分な理由となったのであった。
「はい。都市を出た時点から西に見ていた森林の果てに、我々は漸く辿り着いたという事です。……いえ、未だそれが見えたというだけですので、厳密には北上が終わったという訳ではありませんが」
アイシスの言葉へとタチバナが言葉を続けるが、その主の興奮に引きずられたのか、珍しく気が逸った様な事を言ってしまう。それはタチバナにとっては恥ずべき事ではあったが、当のアイシスにはそんな事を気にする余裕は存在しなかった。
「それなら、直ぐにそれを終わらせれば良いじゃない。行くわよ、タチバナ!」
アイシスは笑顔でそう言うと、やはりタチバナの返事も待たずに駆け出してしまう。その様子からは先程までの疲労は感じられず、タチバナはその事に呆れに近い感情を抱きながらも、そう悪くない気分でアイシスの後を追うのであった。