第169部分
7:18以前にお読みになった方は、もう一度読み直して頂けると幸いです。
「それで、どうだったのかしら?」
自身が知らぬ間に仕事を終えていたタチバナに対し、アイシスはその内心をあまり表に出さぬ様に努めながら尋ねる。それをタチバナに知られる事が嫌という訳ではなかったが、タチバナ本人にとっては何でもない様な事に大袈裟に感動しているのだとすると、それは何だか恥ずかしい事である様に思えたのだった。
「はい。概ね乾いている様には見受けられましたので、既に回収して荷物へと纏めて置きました。そういう訳ですので、そろそろ出発すると致しましょう。ですが、もし何かやり残した事等がございましたら、無論そちらを優先して頂いて構いません」
自身が帰還した時点ではアイシスが未だ目を閉じていた為、恐らくは再び聴覚の鍛錬をしているのだろうと声を掛けなかったタチバナであったが、アイシスからの質問に答える為に漸くその口を開く。その言葉を聴き、アイシスは自身の想像を更に上回る仕事の速さに驚愕したが、タチバナがそれをあまりにも当然の様に口にした為、その驚きも可能な限りに抑えるのだった。尤も、アイシスが危機に瀕した時を除けば、タチバナは常にその様な口調で話してきたのだが。
「……いえ。そういう事なら、早速出発するとしましょう。でも、その前に改めて飲み水を補給した方が良いわよね」
平静を装おうと努めた結果、何故か実際にそれを保つ事に成功したアイシスが言う。普段のアイシスであれば、長かった北上の終わりが近い事もあり、漸くの出発に気が逸ってそれを忘れていてもおかしくはなかっただろう。だが、理由は兎も角としても、保たれた冷静さはアイシスに大切な事を忘れさせなかったのであった。
「はい。荷物は既に纏めてありますので、そちらが出発前の最後の準備となります」
その冷静さに若干の感心を覚えたタチバナであったが、やはりそれを表に出す事も無く淡々とアイシスへと言葉を返す。それは常からのタチバナの習性でもあったが、此度の事を口にする事はいつも以上に憚られた。此処でその冷静さを褒めるという事は、普段はそうでない事が多いと告げるに等しかった。尤も、出発の直前に限ればそれは殆ど事実であり、そこに感心した時点で失礼でないとは言い難いのだが。
そんなタチバナの内心の事など知る由も無く、アイシスはその言葉を合図に水場へ向かうと、例によって水を何口か飲んだ後に水筒の中身を入れ換える。その工程を果たした事で、漸くアイシスは出発に向けて自身のテンションが高まってきた事を感じていた。
アイシスが飲み水の補給を終えた事を確認し、タチバナもそれと概ね同様の行動をする。かつてのタチバナであれば、その際に何度も水筒を濯ぐ様な事はしなかったであろう。だが、たとえそれが不要だと自身では考えていたとしても、今のタチバナはその点も主に倣って行うのであった。現在のタチバナには多少の効率などよりも、ずっと優先すべき事が存在していた。
「ようし。それじゃあ、漸く出発ね。ほら、荷物の処まで急ぐわよ!」
タチバナが水筒への補給を終えるのを見届けたアイシスは妙に張り切ってそう言うと、タチバナの返事も待たずに荷物の置き場所へと駆け出す。その様子に、先程までの冷静さは何処へやらと半ば呆れるタチバナであったが、その思いとは裏腹な感情を抱いてもいた。それはタチバナにとってあまり身に覚えのない感情であったが、その正体を考えるまでも無く、ごく僅かに上がった口角がその解答を示していた。
元々水場と荷物までの距離はそう離れておらず、直ぐにアイシスはその場所に辿り着く。そして自身の荷物へと手を伸ばしたアイシスであったが、そこで一旦動きを止めると、その状態のまま何かを考え始める。それは一見すれば挙動不審の極みの様な行動ではあったが、やや遅れてその場に着いたタチバナにはその意図が概ね理解出来ていた。
暫し固まっていたアイシスは一度右手を自身のポーチの方へと動かすが、そこでも一旦それを止めると、もう一度荷物の方へ伸ばす。それはやはり謎の動きでしかなかったが、やはりその意図もタチバナには理解する事が出来ており、それ故に口を挟む事はしなかった。
やがて自身の荷物を拾ったアイシスはそれを抱えると、きょろきょろと周囲の景色と太陽の方向を確かめる。その動きを見た事で、タチバナは自身の理解が正しかった事を確信していた。やはり、アイシスは向かうべき方角を確かめていたのだ、と。
果たしてその推測は正しかった。最初に荷物に手を伸ばした時点で、アイシスは進むべき方角が分からない事に気付いてその動きを止めたのであった。それをコンパスで確かめようとポーチへと手を動かしたが、今度はそれに頼らずにやってみようと思い直し、また荷物へと手を伸ばした。そして、周囲の風景や太陽の方角から進むべき方角を予想したのであった。
「……よし、多分こっちで合ってるわよね。ほら、何をしているのタチバナ? 早く出発しましょう!」
最初の一言を小声で呟いた後、進むべき方角を推測したアイシスがタチバナへと声を掛ける。一連の様子を、その意図を推測して見守っていたタチバナに対して、その声の掛け方は適切なものであるとは言えなかったが、当のタチバナはそれをあまり気にしてはいなかった。やれやれ、と内心では呟くが、その顔には誰も気付かない程度の微笑みを浮かべていた。