第168部分
「いえ、お嬢様。初めての感覚の鍛錬という試みに於いては、その段階まで進めるというだけでも中々に優秀な結果であると言えますので、そう悲観する必要は無いでしょう。『見付かる』という言葉に関してですが、例えば、暗闇の中で手探りで何かを探し当てた時にも使用しますので、聴覚での探索に関して使用する事にも問題は無いかと思われます」
アイシスは既に十分な努力をしたであろう。自らが観察した主の様子からそう判断したタチバナは、その疑問や悩みを解決せんと、長い沈黙を破りアイシスへと声を掛ける。従者である自身が全ての問題を解決してしまっては、アイシスにとっては興醒めである事は間違いない。とはいえ、自身が従者であるからには、適切な場面では主の助けになる必要がある。その様な事を日頃から考えていた故に、タチバナはこのタイミングで声を掛ける事を選んだのであった。
その線引きには明白な基準は存在せず、状況が変わる毎に全て自身で判断しなくてはならない。その生涯の多くの時間を、実質的には孤独に過ごして来たタチバナにとって、それは非常に困難な事であった。しかし、それ故に、タチバナはそれが面白い事でもあると思っていた。類稀なる才能を生まれ持っていたタチバナにとって、多くの事は容易く片付ける事が出来るものであり、それが出来ない課題にこそやりがいを感じている節があるのだった。
「あら、そうなの? まあ、別に悲観していた訳ではないのだけど、そういう事ならあまり気にしない事にしておくわね。『見付かる』の方に関しては、言われてみれば確かにその通りね。これだから、にほ……コホン、言葉は難しいわ」
うんうんと唸りながら思考に没頭している様に見えていたアイシスだったが、タチバナの言葉に対しては意外にも俊敏な反応を見せ、直ぐにそれへの返答を開始する。だが、それ故に言葉の吟味にあまり時間を割けなかった影響か、アイシスはその言葉の終わり際にうっかりと口を滑らせてしまいそうになる。何とか誤魔化しはしたものの、その話を終えた頃には、アイシスの心臓は焦りから早鐘を打つ様な鼓動を繰り返していた。
「……そうですね。斯く言う私も、言語に関する知識の殆どは所詮書物等から得たものですので、実際の用法として何処まで正しいのか等は分かりません。ですが、言葉などというものは、自身の意図が相手に正しく伝わりさえすれば、それ程厳密な用法を必要とするものでは無い……と、私は存じております」
無論、タチバナはそのアイシスの誤魔化しに気付いてはいたが、それを気にしないかの様に言葉を返す。アイシスが言い掛けた二音から始まる単語に心当たりが無かったという事もあるが、主が突かれたくないであろう点を、わざわざ指摘する必要があるとはタチバナは感じなかった。
それ故に、アイシスが自身に伝えたかったであろう部分にのみ言葉を返したタチバナであったが、その終盤の部分を口にする事には若干の躊躇いが見られた。だが、それはその言葉が偽りや誤魔化しであるという訳ではなく、タチバナは純然たる本心を口にしただけであった。
それでも、そこに若干の躊躇いが感じられたのは、タチバナはその事をアイシスから学んだ為であった。にもかかわらず、それを当の本人に対し、さも自身の考えであるかの様に伝える事には、タチバナもそれなりの疑問を感じずにはいられなかったのである。それでも、タチバナが敢えてそれを伝えたのは、アイシス本人がその事に気付いていない様に思われた為だった。
「おお……良い事を言うじゃない、流石はタチバナね」
感心した様にそう言うアイシスの様子を見た事で、タチバナは自身の見立てが正しかった事を知る。とはいえ、当の本人から学んだ事であるにもかかわらず、それを口にした事で主から称賛の言葉を受けるという事はタチバナの本意ではなかった。
「いえ。……そろそろ、それなりの時間が経過した様に思われますので、干した物が乾いていないかを少々見て参ります」
それ故にそう短く答えると、タチバナは取って付けた様な用事を口にし、アイシスの返事も待たずにその場を立ち去る。そのタチバナの様子には流石に違和感を覚えはしたものの、アイシスがタチバナの言葉を疑う様な事は無かった。十分に納得してタチバナの背中を見送ると、先程の鍛錬のおさらいでもしようかと再び瞼を閉じる。
そうして自身の視覚を封じ、聴覚へと意識を集中したアイシスは、そこでまた新たな違和感に気付く。この様に聴覚へと意識を集中すれば、普段は気付かない様な、それなりに遠くの水音までを知覚する事が出来る。にもかかわらず、そこまで離れていない場所を移動している筈のタチバナの足音が、その耳には一切入って来ていなかった。
思えば、以前沢にてタチバナが魚を捕らえようとしていた時にも、似た様な事に気付いた事はあった。だが、今はその時とは状況が違っている。川の音が無い分だけ、あの時よりも周囲は静かである上、その時には出来ていなかった聴覚への集中が今は出来ている。更に、あの時とは異なり、タチバナは野生動物を捕らえる為に気配を殺している訳ではない。
にもかかわらず、これ程に足音が聞こえないという事は、アイシスにとっては驚くべき事だった。それ故にアイシスが事実を確かめようと目を開いた時、目の前には仕事を終えたタチバナが既に戻って来ていた。新たに気付いたその特技と相変わらずの仕事の速さに、アイシスは改めてタチバナへの尊敬と信頼を深めずにはいられなかった。