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第167部分

「そうね。それじゃあ、試しにやってみようかしら。ええと、先ずは目を閉じてみるのよね」


 少し前に気にしていた事から意図的に意識を離し、それを鍛錬の方へと向けたアイシスはそう言うと無造作に目を閉じる。そのまま集中すべき音を探し始めたアイシスを見ながら、タチバナは複雑な思いを抱いていた。


 これ程簡単に隙を晒してしまうとは、仮にも名家の令嬢にしては他人を信用し過ぎではないか。その様な少々の呆れ混じりな心配をする一方、タチバナはその事に対して悪くない気分も同時に感じていた。それはアイシスのその様な人の良さに対してという事でもあり、自身がそれ程アイシスに信用されているという事実に対するものでもあった。


「そうしたら、何かの音に集中してみる……。よし、この水の音で良いかしらね」


 その様に、タチバナの中での自身の評価がいつの間にか若干上がっている事など知る由も無いアイシスは、目を閉じたまま自身の聴覚へと意識を集中していた。自身が知覚している音の中から、目を閉じる以前には意識出来ていなかった音を探すと、更にその中から鍛錬に使用する音を吟味する。自分はこの鍛錬をするのは初めてなのだから、ある程度は分かり易い音の方が良いだろう。そう考えたアイシスが選んだのは、水場の方から聞こえて来る水音だった。


 今はタチバナが作業をしてはいない筈だが、何の音なのだろうか。水が湧き出る時に発する音なのか、それとも溢れた水が何処かへ流れる音なのか。そんな事を考えながら、アイシスはその瞼を開く。意識をその音に集中し続けていたお陰か、アイシスが目を開いた後もその音が聞こえなくなるという事は無かった。無意識にであれば、今までにも似た様な事をした事はあるだろう。その様には本人も思っていたが、こうして目を開いたままに意識して聴覚のみに集中している状態は、アイシスにとっては中々に奇妙な感覚であった。


 そうして、アイシスが初めての聴覚の鍛錬に挑戦している間、タチバナはそれを黙って見守っていた。聴覚の鍛錬という性質上、声を掛けるという事は許されない。いや、アイシスであれば笑って許してしまうかもしれないが、タチバナが自身にそれを許す事は無かった。その為、アイシスが現在どの工程を行っているか等、鍛錬の状況を知る事は難しいだろう。その様にタチバナは考えていた。


 だが、実際にはアイシスがそれを細かに口にするお陰で、概ねの状況はタチバナにも把握する事が出来ていた。アイシスは自身に対して報告をしているという訳ではないのだろうが、その独り言が自身の助けになっている。その事が妙に可笑しく感じられ、タチバナは微笑を禁じ得ないのであった。


「ええと、そろそろ一度別の音に意識を向けるっていうのをやってみようかしら」


 暫しの沈黙の後、アイシスがそう独り言ちる。目を開いて以降も水音を意識し続ける事に成功したアイシスは、このまま続けるよりも次の段階への挑戦をすべきだと考えたのであった。それを聴いた事で今度もアイシスの状況を知る事が出来たタチバナであったが、それには若干の驚きを隠せなかった。


 静かな室内等の音の種類が少ない状況であれば兎も角、この様な様々な音やその他の刺激に溢れた野外でありながら、初めての挑戦でその段階まで進むとは。その様に考えたタチバナは、自身の予想を超えるアイシスの潜在能力に、改めて冒険者としての高い資質を感じていた。そうして、またもアイシス本人が知らぬ間に、タチバナのアイシスへの評価が上昇していくのであった。


 一方、その様なタチバナの内心での出来事など知る由も無いアイシスは、聴覚の鍛錬の為に一度意識を水音から離す。すると、アイシスには様々な音が自身の周囲に一気に溢れたかの様に感じられた。無論、それらの音はその前から知覚していた音なのだが、アイシスには小鳥が急に大声で騒ぎだしたかの様にすら感じられていた。


 その事がアイシスに与えた衝撃は決して小さくはなかったが、感覚の鍛錬へと真剣に取り組んでいるアイシスは、どうにかそれを次の段階へと進めるべく次に集中する音を探す。半ば必然的に、その対象は小鳥の囀りへと決定された。だが、先程までの水音が元は意識する事も出来ていなかった程に微かな音だった事もあり、アイシスにはそれが耳障りにさえ感じられた。


 そうしたら、次はまたさっきの水音を……。内心でそう呟きながら、アイシスは周囲の音から目的の水音を探し始める。だが、それに暫しの時を費やしても、アイシスにはそれを探し当てる事が出来なかった。


「ああ、駄目だったわ。目を開けたまま水音を意識し続けるまでは上手くいったのだけど、その後に小鳥の囀りを意識したら、今度は水音が見付からなくなっちゃった……うん? 耳で探しているのに見付かるっていうのもおかしいかしら?」


 アイシスが悔しそうにそう言うが、その興味は直ぐに自身の言葉遣い、若しくは言語学的な方向へと移っていた。そのアイシスの言動を見聞きしながら、タチバナは思っていた。この高い向上心と強い好奇心……やはりアイシスには冒険者への高い適性がある、と。


 一方、そんな事は知らぬアイシスは、自身が使用した単語の代替案をうんうんと唸りながら必死で考えていた。だが、この様な特殊な状況を表す様な言葉は、いくら考えても思い浮かぶ事は無いのであった。

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