第166部分
だが、アイシスにとっては幸か不幸か、タチバナはその言葉に対して特に深い意味を見出す事は無かった。共に旅をして寝食をも共にする相手の事については、アイシスも可能な限り知っておきたいのは当然だろう。その様な事を考えるだけであった。より厳密に言えば、意図的にそうとだけ考える様にしていた。
「……そうでしたか。それでは、現在の私が感覚の鍛錬をする方法についてお話しさせて頂きます。尤も、私の場合は既に能力を伸ばす為というよりも、それを維持する為の鍛錬になってしまっておりますが。とはいえ、どちらも方法に大きな差は無く、具体的な方法も至極単純なものでございます。私が先程していた聴覚の鍛錬を例に取りましても、他の感覚を遮断しない状態に於いて、自身が感知出来る最小の音を捉え続けるというだけのものです。他の感覚に於いても概ね同様の鍛錬方法ではありますが、その感覚毎に集中する対象は当然変化致します。無論、鍛錬毎やその途中に於いても、集中する対象を変えたり等の変化を付ける事もございます」
先程までと同様の口調で、タチバナが自身の鍛錬の方法についての説明をする。やや長いその話を聴きながら、アイシスはその内容に意外さを感じていた。鍛錬の段階が上昇する毎に、より複雑な方法になっていく。その様な勝手な先入観が、これまでの経験からアイシスには存在していたのであった。
「へえ、意外と単純なものなのね。それじゃあ、さっきは何の音に注目していたのかしら?」
だが、その様な意外さこそが、アイシスの好奇心を満たしていく。満たされた好奇心は知識となって定着し、アイシスの中にはまた新たな好奇心が生まれる。そうして生まれた好奇心によって次にアイシスが興味を惹かれたのは、その意外と単純な方法の、より詳細な内容だった。
鍛錬の方法を話す事に異論は無い。先にそう述べていたタチバナであったが、アイシスの質問に対して即答する事は出来なかった。それが想定外の質問だったという事もあるが、それ以上に回答を躊躇する理由がタチバナにはあった。しかし、従者として主の疑問には答えるべきであるし、自身の言葉には責任を持たねばならない。その様に考えたタチバナは、暫しの間の後に観念して口を開く。
「……先程私が集中して聴いていたのは、お嬢様の心臓の鼓動の音でございます。失礼であるかもしれないとは思いましたが、鍛錬に丁度良い音量でございましたので、つい」
これまでよりもややゆっくりとした口調ではあるが、やはり淡々とタチバナが答える。だが、自身が求めた答えが得られたにもかかわらず、アイシスは直ぐに言葉を返す事が出来なかった。その答えをタチバナが口にした瞬間から、アイシスは口をあんぐりと開けて固まってしまっていた。
「……は? 心音って……え? 聞こえるの? この距離で?」
やがて、アイシスは何とか言葉を返す事に成功するが、それは先の驚愕の影響により、流暢な言葉であるとは言えなかった。タチバナの人間離れした所業は散々見てきた筈のアイシスだったが、タチバナが直近に発した言葉は、その中でも一番の衝撃をアイシスに与えていたのであった。
「……はい。その、それ程に驚かれる様な事でございましたか?」
そのアイシスの反応を見た事で、当のタチバナも若干の驚きは隠せなかった。自身が通常の人間よりも様々な能力に於いて優れている事をタチバナは知っていたが、戦闘能力は兎も角、自身の五感がそれ程の驚きを生む程のものだとは思ってはいなかった。生まれつきに聴覚が優れた人間がそれなりの鍛錬を積めば、目の前に居る人間の心音を捉える事位は出来るだろう。そう考えていた。
「……ええ。そう……だとは思うんだけど、貴方のその反応を見ていたら分からなくなってきたわ。私の方が間違っているのかもしれないわね。まあ、でも、とても優れた聴覚である事は間違いないと思うから、鍛錬の賜物と言って良いんじゃないかしら。流石ね、タチバナ」
一方、言葉を紡ぐ事が難しい程の驚きを感じていたアイシスであったが、貴重なタチバナの狼狽する様子を目にしたお陰か、急速に落ち着きを取り戻していた。そして、その取り戻した冷静さが命じるままに、アイシスはこの件についての話を強引に纏める事を選択する。この件についてこれ以上考える事は、少なくとも良い結果を生む事は無い。そうアイシスの理性は判断したのであった。
「……ありがとうございます。それでは、よろしければお嬢様も聴覚の鍛錬を試してみては如何でしょうか。干した布が乾くにはもう少々時間が掛かるでしょうし、以前にも申し上げた通り、五感というものは鍛えておいて損があるものではありませんので」
アイシスとは逆に、主の冷静さを見た事でタチバナは落ち着きを取り戻す。とはいえ、タチバナは元々アイシス程にそれを失っていた訳ではなかった為、それによる変化はそれ程大きくはなかったが。ともあれ、そうして冷静になったタチバナはアイシスの言葉の意図を直ぐに汲み取ると、現状の話題を締めて主に鍛錬の実践を勧めるのであった。