第164部分
「ええ、分かったわ。というより元々興味本位で訊いてみただけだし、もし私にも出来そうだったらやってみるかもしれない、という程度だから気楽に話してくれて構わないわよ。そもそも、各人によって能力も感覚も違うんだから、世の中の大体の事はそういうものでしょう」
自身が胸に秘めた思いが言葉や表情に出てしまわぬ様に気を付けながら、アイシスがタチバナに言葉を返す。その事に気を取られた結果、事実とはいえ興味本位である事を強調してしまったのは失礼だったかもしれない。言い終えた後にそんな事を思ったアイシスであったが、慌てて訂正する様な事はせず、タチバナの反応を待つ事にする。そう長い付き合いという訳ではないが、これまでの遣り取りから推測する限り、タチバナはそういった細かい点を気にはしないでくれる様にアイシスには思えていた。
「……かしこまりました。それでは、未だお答えしていない質問への回答……則ち、私なりの感覚の鍛錬法についてお話しさせて頂きます。とはいえ、実際に目や耳その物の機能を上昇させるという事は簡単ではありませんので、どちらかと言えば意識の鍛錬と言った方が良いかもしれませんね」
「ええと、つまりはどういう事かしら?」
果たして、アイシスの推測は正しかった。タチバナはその言葉の細部にいちいち目くじらを立てたりはせず、直ぐに未回答であった主の質問へと答え始める。だが、その話が始まって間もなく、アイシスが口を挟む。未だ説明の途中なのだから当然であるのだが、それを理解出来ないのが自分自身の問題であると思ったアイシスは、タチバナにより詳しい説明を求めたのだった。
「そうですね……先程、お嬢様は目を閉じておられましたが、その際に周囲の音が普段よりも良く聞こえたりはしませんでしたか?」
そのアイシスの要求に対し、タチバナは未だ説明の途中である旨を伝えたりせずに素直に答える。それは殆ど即興によるものだったが、タチバナはアイシスがより理解をし易い様にと、本人の直近の経験を用いての説明を試みる。
「え? ええ、まあそんな気はしたわね。普段は聞こえない音も聞こえていた気がするわ。でも、それがどうかしたかしら?」
突然に話題が自身の事へと転じた事で、アイシスは驚きの声を上げてからタチバナの問いに答える。その驚きの影響もあり、この時点でもアイシスはタチバナの言葉の意図を測りかねていた。
「やや乱暴な言い方をしてしまえば、それが感覚……もとい意識の鍛錬という事です。目を閉じたら普段は聞こえない音が聞こえた……お嬢様はそう仰いましたが、当然ながら実際に耳の機能が上昇したという訳ではないでしょう。にもかかわらず、より鮮明に音が聞こえたという事は、視覚が封じられた事でより多くの意識が聴覚へと割かれた為だと考えられます。つまり、いずれかの感覚により集中する事で、疑似的にその感覚の機能を高める様な効果を得られるのです」
やはりアイシスにはそれが普段よりもやや饒舌に感じられたが、その話を聴いた事でアイシスは漸くタチバナの言わんとする事を理解する。そして、一度それが分かると、タチバナが非常に分かり易い説明をしてくれていた事も、アイシスは直ぐに理解する事が出来た。
「成程。つまり、鍛えたい感覚に集中するっていう事が、その感覚の鍛錬になるって事なのね。という事は、タチバナはさっき聴覚の鍛錬をしていたと言っていたから、その間は私みたいに目を閉じていたのかしら?」
タチバナの話の工夫にも気付いたアイシスはその事に礼を言いたかったが、話の腰を折らぬ様にそれを吞み込んで話を進める。かつては様々な思いを胸に秘めながらも、言いたい事を言えぬままの生涯を送った少女であった。だが、それを口に出せる様になった今になって学んだ事もあった。時にはそれを胸に秘めるべき状況も存在する、と。
「流石はお嬢様……と申し上げたくはありますが、半分正解と言った所でしょうか。鍛錬の最初の段階であれば、お嬢様が言う様に目を閉じて他の感覚に集中する事も効果的だと言えます。ですが、実際の冒険なり戦闘なりに於いては、その様に目を閉じてしまっていては最も重要、かつ正確な情報を受け取れなくなってしまいます。その為、私は先程の聴覚の鍛錬の際にも普段通りの状態を保っておりました。鍛錬をする場合に大切なのは、それを実際に活かしたい場面と同じ状況を意識する事ですので」
アイシスの言葉を受けたタチバナが説明を続ける。その最初の方を聴いた際には、アイシスはそれを意外だと感じていた。だが、タチバナの話が進むに連れ、アイシスはその内容に心から納得していく。最後の方を聴いている頃には、いつも自身を論理的に納得させてくれる知識と話術を持つタチバナに対し、アイシスは更なる敬意を抱いていた。とはいえ、それでも新たな疑問は湧くものであった。
「うーん、成程ね。でも、それなら目を閉じて鍛錬する必要は無いんじゃない? 最初から普段通りの状態で訓練した方が効率が良さそうだけど」
そうして浮かんだ疑問を、アイシスは直ぐに口にする。ただそれだけの事であり、多くの人間にとっては当たり前の行為でもある。だが、それが出来るという事が、少女にとってはこの上ない程に喜ばしい事だった。そして、少女にとっては更に幸いな事に、タチバナもそれに近い思いは抱いていた。尤も、それは少女には知る由も無い事であるのだが。