第162部分
そうしてアイシスが見上げた空は青く、そして澄んでいた。雲一つ無い青空……という訳ではなかったが、何処までも青く続くキャンバスには、寧ろその白が良く映えているとアイシスは思った。その青と白の美しい風景と暖かく降り注ぐ日差しに、アイシスは自身が今居る場所が一端の危険地帯である事を忘れかけていた。
その一時の平穏の中、アイシスは無意識に息を深く吐くと何となく目を閉じる。すると、アイシスには先程と同様、視覚以外の感覚が忽ち鋭敏になっていく様に感じられた。風の音や小鳥の囀りがより鮮明に耳に届き、それまでは気付かなかった、タチバナが洗い物をしているであろう水音までが聞こえて来る。食後の文字通りに満ち足りた気分の中、アイシスにはこの一時が限りなく尊いものである様に思えた。
現在、自分達は一つの目標を持ち、それに向けて旅をしている。その達成の為であれば、どの様な努力をも厭わないという覚悟もある。だが、それでも、その目的を達成する為だけの旅などはしたくない。その道中にある事は全て……こうした小休止も、先日の様な少しの困難であっても、出来る限りは楽しみながら進んで行きたい。……そして、タチバナとならばそれが出来る気がする。
その様な、自身でも少し恥ずかしいと思える事を考えていたアイシスは、何時しか水音が聞こえなくなっている事に気付かなかった。我ながら、恥ずかしい事を考えてしまった。そう思って顔を赤らめ、にやにやとした笑いを浮かべながらも、未だ目を閉じたまま周囲の音や風の感触を楽しんでいた。
既に昼食の後片付けを終え、アイシスの近くまで戻っていたタチバナはその様子をしかと見届けていたが、声を掛ける事はしなかった。現状ですべき事は既に終えたものの、干している布の類が乾くまでには未だ時間を要するだろう。そう考えたタチバナは、主が何を考えているのであれ、それを邪魔する様な事をすべきではないと判断したのであった。
「ふう……って、タチバナ!? いつの間に戻ってたの!?」
アイシスは一通りの思考を終えて目を開くと、未だ洗い物をしていると思っていたタチバナの姿が視界に入った事により、思わず驚きの声を上げる。気付けば当初の内容からはかけ離れた内容になっていた思考に熱中していたアイシスは、水音が止んだ事にも、タチバナが戻って来ていた事にも、全く気付いてはいなかったのであった。それ故の驚きと自身の直近の思考の内容も相まって、アイシスはその顔を更に赤らめる。
「……やはり気付いておられませんでしたか。先程から戻っておりましたが、お嬢様が何やら思考に没頭していた様でしたので、敢えて声を掛ける事はしなかった次第です」
アイシスとは対照的に、タチバナは冷静そのものといった態度で主の問いに答える。その言葉には一切の偽りは無く、その行動が純然たる善意による物である事を示していた。その言葉を聴きながら、アイシスは思い知っていた。良かれと思っての行動が、必ずしも相手にとっても最良の選択であるとは限らないのだなあ、と。
「そうだったのね。気を遣ってくれたのは嬉しいけど、別に声を掛けてくれて良かったのよ。後片付けが終わったのなら、もう特にやる事は無いでしょう?」
とはいえ、それによってもたらされた損害があまりにも著しいのでもない限り、他人の善意による行動を責める事などアイシスには出来ず、またしようとも思わなかった。あくまでも論理的にその理由を説明し、その様な場合には声を掛けても構わない旨を伝える。
「それは確かにその通りなのですが、干した布が未だ乾いておりませんので、もう少々は此方に留まる必要がございます。その間であれば、思考に没頭する事も、再び辺りを散策する事も、それはお嬢様のご自由にすべき事ですので」
そのアイシスの言葉に対し、タチバナも論理的な説明を以て答える。そこには最早反論の余地は無く、アイシスは自身が抱えている恥ずかしさが、甘んじて受け入れるしかないものである事を悟る。尤も、その恥ずかしさは自身の内心のみからによるものであり、本来は気にする必要すら無いものであるのだが。
「ああ、そう言えばそうだったわね。……ところでタチバナ、こういう暇な時って、貴方はどうやって過ごしているの?」
その悟りによって立ち直ったアイシスは、ふと気になった事を思い切ってタチバナに尋ねる。自身が目を閉じて思考に没頭している間に戻って来ていたのであれば、その間にもタチバナは何かをしていた筈であり、その事はアイシスの興味を強く引いたのであった。
「……無論、その時々の状況にもよるのですが、以前にも少しお話をした通り、五感の鍛錬等に費やす事が多いですね。丁度先程も、付近の様子を窺う事を兼ねて聴力の鍛錬をしておりました」
そのアイシスの質問に、若干の間を置いてタチバナが答える。それは、自身の事などを知っても仕方が無いのでは、という考えからの間であり、そこに他意は無かった。その為、自身の過去の発言をアイシスが忘れていたとしても、タチバナはそれを気にするつもりも無かった。
「ああ、ご――コホン。そう言えば、そんな事も言っていたわね。別に忘れていた訳じゃないのよ? でも、他にもしている事とか無いかな……って。本当に忘れてた訳じゃないからね!?」
だが、一方のアイシスはその事を随分と気にしている様だった。謝罪の言葉を何とか呑み込むと、その後には自身がその事を忘れていない旨を必死で訴える。別に偽りを述べている訳ではなく、思い付いた疑問を口にするまでにはそれが思考上に浮かばなかっただけであったが、その必死さは寧ろその事の信憑性を損ねてしまっていた。その事が妙に可笑しく感じられ、タチバナはまた思わず笑みを浮かべてしまうのだった。