第161部分
「……ありがとうございます。それでは、食事を続けましょう」
とはいえ、その様な事をわざわざ明かす必要は無い。その様に考えたタチバナは普段通りの口調でアイシスに礼を言うと、話を打ち切って食事を進める事を提案する。主の称賛に対しては謙遜をするべきという気がしないではなかったが、その事については既に何度か話していた為、それを繰り返す事はしなかった。
「そうね。冷める前に頂いちゃいましょう」
タチバナの内心での出来事は勿論、その表情の変化にも気付かなかったアイシスはそう答えると、直ぐに箸を持って食事を再開する。だが、アイシスはそれらには気付かなかったものの、タチバナがそう満更でもなく思っている事は何となく雰囲気から察する事が出来ていた。その為か、アイシスにはこの食事の味が先程よりも更に美味に感じられていた。
アイシスが食事を再開した事を確認すると、未だ自身の分に手を付けていなかったタチバナも漸くそれを食べ始める。先程感じていた不安はそう深刻な種類のものではなかったが、効率的な行動を心掛けている自ら食事を遅らせる程に、自身はそれを気にしていたらしい。そんな事を考えながら、タチバナはアイシスの言葉に嘘が無かった事を実感していた。
「ごちそうさまでした。今日も美味しかったわ」
「……お粗末様でした」
今回も胃への優しさよりも自身の欲求を優先したアイシスは、出された料理を咀嚼がやや不十分なままに平らげると、食後の挨拶をしながら箸を置く。それに対し、そもそも胃への優しさなどという概念を考えた事も無いタチバナも、殆ど間を置かずそれに応える。
この旅の完遂を効率的に考えるのであれば、以前と同様に碧豆のみを具材とした麺料理を出すべき場面であったが、それに反した自身の行動をタチバナは誤りだとは思わなかった。アイシスの喜びという今の自身の目的を考えれば、食の充実は最早必須の事項であると思われた。
「それでは、後片付け等は私が致しますので、お嬢様はご自由になさっていて下さい。再び周囲の探索へと赴かれますか?」
とはいえ、やはり基本的には効率的に動いていたいタチバナは、早速次の仕事を済ませに掛かると共にアイシスに今後の行動を尋ねる。アイシスがどう動こうとも自身のやる事自体は変わらないが、その位置によって周囲への警戒の度合いは変わって来る。それも効率的に行う為にも、タチバナはアイシスの動向を把握しておきたかった。
「いえ。何だかお腹が一杯だから、暫くはこのまま休んでいる事にするわ。悪いけど後片付けはお願いね」
そんなタチバナの意図を探る事も無く、アイシスはその問いに素直に答えると使用した食器をタチバナへと渡す。その原因は本人にも分かっていなかったが、アイシスは自身の胃に普段より強い圧迫感を覚えていた。そして、その満腹感と満足感は、アイシスの活動を制限させる十分な理由となっていた。
「……最近のお嬢様のご様子からお食事の量を少し増やしてみたのですが、余計な事を――」
「いえ、そんな食べ過ぎて調子を崩したとかではないから心配しないで。寧ろ、お腹一杯になるまで美味しいご飯を食べられるなんて、そんな幸せな事はそうそう無いわよ」
自身の言葉に対して食器を持ったまま答えるタチバナの話を聴き、アイシスは慌ててそれに口を挟む。無論、タチバナが自分を責めないようにとの行動と言葉ではあったが、他の目的が含まれている事がアイシスには否めなかった。元々の量が不足していたという訳ではなかったが、折角増えた食事の量が減る事は避けたかった。
かつての自身の生活に対する反動の為かは本人にも分からないが、この世界で目覚めて以来自身の食欲が旺盛である事は少女も感じていた。だが、その理由がどうであれ美味しい物を食べている時間は幸福な物であり、食べる量が多ければその分それが長く続く事になる。その様に考え、少女はそれを無理に抑えたりはしない事にしていた。自身の身体が明白に変化する、則ち太ってしまうまでは、であるが。
「……そう仰って頂けるのであれば幸いです。それでは、私は後片付けをして参りますので、お嬢様は楽になさっていて下さい。無論、その間にも何か御用がございましたら、遠慮なく仰って下さいませ」
自らの話を遮ったアイシスの言葉に対し、少々の間を置いてからタチバナが答える。かつての自分であれば気にしなかった様な事を、こうして気にしてしまう今の自身は弱くなったのだろうか。話しながらその様な事をタチバナは考えていたが、実際にはそうではないような気はしていた。その点に於いて、アイシスが自身に劣っているとは思えなかった。たとえ本当に弱くなっていたのだとしても、それが悪い事だとは思えなかった。
「分かったわ。それじゃあ、後はよろしくね」
「かしこまりました。それでは行って参ります」
互いに短く言葉を交わすと、タチバナは水場へと食器類を運んでいく。アイシスはそれを見送ると、特に理由も無く視線を青空に向けるのだった。