第160部分
完成間近。そうタチバナが言った昼食が実際に出来上がるまでの短い時間を、アイシスは目を閉じて過ごしていた。特に考えがあってそうした訳ではない。気が付けばただ自然と瞼を閉じ、視覚以外の感覚に身を委ねていた。その間、アイシスは葉擦れの音や鳥の囀りが普段よりもはっきりと耳に届き、そよ風が身体を撫でる感触や日差しの暖かさも、いつもより鮮明に感じる事が出来ていた。無論、その様に鋭敏になっていたのは嗅覚も例外ではなかった。
はっきりとした風が鍋の方から吹いていた訳ではないが、アイシスの嗅覚は何やら食欲を刺激する匂いを感じ取っていた。目を閉じて鳥の声や風の感触を楽しんでいた風流人は何処へやら、その匂いはアイシスを一瞬にして食欲の権化へと変えてしまう。何やら様々な匂いが混じっている様であり、何の匂いであるかをアイシスには判別する事が出来なかったが、それを嗅いだアイシスの頭の中は食事の事で一杯になっていった。
「お待たせ致しました」
その一言をタチバナが発した瞬間、アイシスは目を開けて立ち上がるとタチバナの方へと駆ける様に歩き出す。その迫真の様子に、タチバナは続きを話す事を諦め、直ぐに料理を皿に盛り付ける事を選ぶ。仮にも名家の令嬢として、これ程に食欲に忠実な態度を取るのは如何なものか。タチバナはその様な考えが浮かばない事も無かったが、アイシスが自身の料理をこれ程に楽しみにしてくれている事への喜びの方が勝っている事を感じていた。
だが同時に、その期待はタチバナに小さな不安をも抱かせていた。此度の料理はアイシスの舌を満足させる事が出来るだろうか。昨日の昼夜の二食があまりにもアイシスから好評であった事もあり、タチバナはその様な考えを振り払う事が出来なかった。
「どうぞ。熱いのでお気を付け下さい」
その不安を態度には滲ませずにそう言うと、タチバナは言葉も無く差し出されたアイシスの両手へと料理が盛られた皿を渡す。この私にこうも幾度も不安を抱かせるとは、やはりアイシスは恐るべき少女だ。これまでの生涯に於いて殆どその感情を抱いた事が無かったタチバナは、料理を渡しながらそんな事を思っていた。
「ありがとう」
タチバナから料理を受け取ったアイシスはそう言うと、湯気が立つその皿の内部を意図的に良く見ない様にして自身の席の方へと慎重に歩き出す。此度の食事がどの様な物であるかへの興味は多大にあるが、その観察は席に着いてからじっくりと行いたい。その様な思いからの行動であった。
それを受け取りに来た時とは対照的に、料理を持ってゆっくりと自身の席に戻って行くアイシス。それを不思議に思いながらも、タチバナは自らの分を皿へと盛り付けると、すっと自身の席へと移動する。万が一を考え、折角の料理を無駄にしない様に慎重に歩くアイシスとは異なり、自身の運動能力であればその様な事が起こり得ない事をタチバナは十分に理解していた。
「それじゃあ、頂きます」
「頂きます」
無事に席に戻ったアイシスが食前の挨拶をすると、タチバナも小声でそれに続く。一種の儀式を済ませた事で、漸く目の前の料理へと視線を向けたアイシスの目に入ったのは、自身の予想を超える物であった。麺類であるというタチバナの言葉と自身が収集した食材から、アイシスは自分達が数日前に食した碧豆入りのうどんらしき物と同様の物が出て来ると予想していた。その推測は概ね正しかったが、目の前に現れたのは、それをより豪華にした物だった。
以前と同様である、うどんの白と碧豆及び野草の緑の鮮やかなコントラストの中に、自身が心の何処かで臨んでいた肉類の茶系の色が含まれている。その正体は未だ不明だが、以前のうどんよりも豪勢である事は間違いない。これならば、味もその時の物より更に期待が持てるだろう。その様な思考を経たアイシスは全ての具材が含まれる様に料理を箸で掴むと、胸を弾ませながらそれを口に運ぶ。
「……残念ながら本日は都合の良い獲物が現れませんでしたので干し肉を用いてみたのですが、お味は如何でしょうか」
アイシスがそれを咀嚼し終えた頃を見計らい、タチバナが声を掛ける。自身が味の感想を口にする前に掛けられたその言葉はアイシスにとって意外なものであったが、それは言った本人にとってもそうであった。従者として主が満足する料理を用意する事は当然ではあるが、それへの感想を自ら尋ねる必要は無い。そう考えていた筈だとタチバナは思っていた。
そのタチバナの問いに対し、アイシスは直ぐには答えなかった。一度箸を皿に置くと、右手の親指を立ててタチバナの方へ突き出しながら口を開く。
「ぐっじょぶよ、タチバナ。凄く美味しかったから、また何かの鳥でも獲れたのかと思っていたけど、まさか干し肉だったとはね。やっぱり、貴方には料理の才能があると思うわ」
そのアイシスの返答を聴きながら、タチバナは自身が微かに笑みを浮かべている事に気付いていた。それは言うまでもなく、アイシスの称賛の言葉を受けての喜びによるものである。だが、タチバナはそれとは別の感情が自身の中に浮かんでいる事にも気付いていた。他人の称賛の言葉を受け、それを素直に喜ぶ事が出来る。そんな本来であれば当然の事への喜びと、それを可能にしてくれたアイシスへの感謝を、タチバナはその内心に感じていた。