第159部分
斯くして、再び自然の中を歩き始めたアイシスであったが、その頭の中の殆どは別の事で占められていた。今日の昼食は麺類だと言っていたけれど、またあのうどん……らしき物なのかしら? それとも、街で食べた焼き麺の類だったりして。前者だった場合には今回も碧豆との組み合わせになってしまうから、また同じ物になってしまうわね。まあ、あれも美味しかったから別に良いのだけど。
その様な思考を辿り、あっさりとした味わいであったかつての食事を思い出したアイシスは内心でそう言うが、何か物足りなさは感じてしまっていた。決してそれが美味しくなかったという訳ではないが、最近食べた食事の旨味と比較すると、やはり少々劣ってしまう事は否めなかった。要するに、アイシスも一般的な若者と同様、動物性蛋白質の旨味を求めているのであった。
そうして、食事の事ばかりを考えながらぼんやりと歩いていたアイシスであったが、ふと視界の端で何かが動いた事に気付く。はっとしてその方向へ目を遣るが、その辺りには地面の土と草の茂みがあるだけだった。ご飯の事ばかり考えていたばかりに、折角の出会いの機会を逸してしまった。そう落胆するアイシスであったが、諦め切れずに周囲を観察し始める。別にそれを捕まえたいという訳ではなかったが、せめてその正体を確かめたかった。
その思いでアイシスは茂みへと近付くと、その場にしゃがんでそれを観察し始める。暫しの間、アイシスはそのままの体勢で茂みを見つめていたが、やがてその内部から表面に何か動く物が出て来る瞬間を視界に捉える。それが茂みを構成する草の色に近い体色をしている為、アイシスはその正体を直ぐには判別する事が出来なかったが、やがてその姿をはっきりと視認する事に成功する。
「あ、蜥蜴さんだ。か、可愛い」
その緑色をした蜥蜴をしっかりと視界に捉えたアイシスが呟く。生まれて初めて見る、その何とも言えないとぼけた表情の生物に対し、少女は興奮を抑える事が出来なかった。だが、今自分が騒いでしまえば、直ぐにまた蜥蜴は逃げてしまうだろう。そう考えたアイシスは、自身の声と身体の動きを可能な限り抑制しながら、時折する瞬き以外には微動だにせずにいるその蜥蜴を眺め続けるのであった。
やがて、何に反応したかは定かではないが、その蜥蜴はふとその場から走り去る。それまでの間、アイシスは何をするでもなく、そして何を考えるでもなく蜥蜴を見つめて続けていたが、それを退屈だとは思わなかった。
「ああ、行っちゃった。残念ね」
名残惜しそうにそう言って立ち上がると、アイシスは自身の空腹感が強くなっている事を感じる。そろそろ昼食の用意も出来た頃かしら。夢中で蜥蜴を眺めていた為に時間の感覚が曖昧になっていたアイシスは、特に根拠も無く願望からそう推測すると、タチバナの居る水場への帰路に就く。その短い道中を歩きながら、アイシスは蜥蜴が何に反応して走り去ったのかをぼんやりと考えていた。
アイシスが水場が見える位置にまで戻ると、竈の煙と鍋から出る湯気が共に立ち昇っている様子が見て取れた。タチバナを長く待たせる様な事にはならなかった事に安堵しつつ、アイシスは無意識に足を速めながらその場所へと歩いて行く。
「お帰りなさいませ。何か、か……面白い物は見付かりましたか?」
彼我の距離がある程度まで近付いた時、タチバナが帰還した主へと声を掛ける。その際、タチバナにしては珍しくやや言葉を詰まらせる場面があったが、それはタチバナがある単語を口にする事を躊躇した為であった。尤も、アイシスはそれを特に気にする事は無かったが。
「ええ。緑色をしたこれ位の蜥蜴が居たのだけど、とぼけた顔をしていてとても可愛かったの!」
タチバナの質問に、アイシスは帰還の挨拶も忘れて興奮気味に答える。それは、蜥蜴に出会えた事やその可愛さへの感動が残っていたという事もあったが、タチバナがその事を真っ先に気にしてくれた事に対する喜びによる所が大きかった。
「……それは幸いでしたね。丁度、今昼食が出来上がる所ですので、もう少々だけお待ち下さい」
アイシスがそれ程に興奮する気持ちも、蜥蜴を可愛いと言う感覚も、今のタチバナには理解する事が難しかった。だが、タチバナはそれを一切表に出す事も無く、素直に主へと祝福の言葉を掛けると、食事の用意が出来る旨を伝える。たとえ自身にその気持ちが理解出来ずとも、タチバナにとってアイシスの喜びとは、自身のそれに殆ど等しいものなのであった。
「分かったわ。それじゃあ、用意が出来たら声を掛けてね」
先程の興奮は落ち着きつつはあるものの、未だ弾んだ声でアイシスが答える。そう大した出来事が起きていた訳ではなかったが、この一連の出来事を経たアイシスは、自身がこれ程の幸福を享受して良いのかと思う程の喜びの中にいた。大自然の中を歩いて可愛らしい蜥蜴と出会い、それが済んだら待ってくれている人の許に帰る事が出来、その人からお帰りの挨拶と嬉しい言葉を貰え、その後には美味しい食事を頂く事も出来る。それら全てが、少女にとっては何よりも得難い幸せと言っても良かった。