第157部分
やがて、十分な薪と火付け用の枯れ草を集めたアイシスが水場への帰路に就いていると、その方向から何やら衝撃音らしきものが聞こえて来る。それがあまりに状況にそぐわない音であった為、聞き間違いを疑ったアイシスは足を止め、それを確かめる為に耳を澄ませる。結果、その確認はほんの数瞬で済み、アイシスは自身の聴覚や認知機能には問題が無い事を知るのであった。
アイシスが改めて耳にしたその音は、まるで自動車のドアを勢い良く閉めた時の様なものであり、水場でタチバナが行っているであろう作業で発生し得る音だとは思えなかった。何か良くない事が起きているのかもしれない。タチバナであればその様な心配は無用だとは思いつつも、ふと「この世界には自身も及ばぬ魔物も存在する」というタチバナの言葉を思い出したアイシスは、不安を抑え切れずに水場へと足を急がせる。
そうして、水場をその視界に捉えられる位置まで急ぎ移動したアイシスが見たのは、何やら白い塊を、平らな石の上に置かれた金属のトレーへと投げつけるタチバナの姿であった。焦燥していたアイシスにはその意図が直ぐには分からなかったが、周囲に魔物等の姿は無く、自身の想像がやはり杞憂であった事だけは理解する事が出来た。
安堵から深い息を一つ吐くと、アイシスは足を緩めて謎の行為を続けるタチバナの方へと歩み寄る。その間にもタチバナは二、三度トレーにその塊を投げていたが、その時に発生した音が、先程耳にしたもの程は大きくない様にアイシスには感じられた。先のあれは、木々にでも反響していたから大きく聞こえたのだろうか。そんな事を考えつつ、アイシスはタチバナのその行動をぼんやりと眺めながら歩いていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
彼我の距離がある程度まで縮まった時、タチバナはその手を止めて何事も無かった様にアイシスへと声を掛ける。普段よりも僅かにそのタイミングが遅れてはいたが、その声がいつも通りのものであった事により、アイシスは直前に自身が内心で浮かべてしまった、もう一つの想像も杞憂であった事を理解して心から安堵する。
もしかしたら、タチバナは本当は私に不満を抱えていて、そのストレスを解消する為にこの様な奇行をしているのかもしれない。タチバナの行動の意図が理解出来なかった故に、アイシスはその様な事を考えてしまったのであった。無論、アイシスも本気でその様な可能性を考えた訳ではない。だが、根が悲観的であった少女は、時にこの様な想像をしてしまう事が未だあるのであった。
「ただいま。で、貴方は今何をしている訳?」
その悲観的な想像を振り払うかの様に、アイシスはわざとらしく偉そうにそう尋ねながら、両手に持っていた木の枝等を竈の付近の地面へと下ろす。例によって既に竈等がきっちりと用意されている事は、アイシスを何となく安心させた。
「本日も薪集めをありがとうございます。そして、こちらの作業ですが、本日の昼食は麺にしようかと思いまして、その生地を捏ねていた所でございます。やはり、麺類は弾力があった方が美味しいと言われておりますので」
タチバナは主の口調の僅かな変化に気付きはしたものの、それを敢えて指摘したりはしなかった。主の仕事への礼を述べると、その疑問にも素直に答える。それを聴いた瞬間、アイシスは全ての疑問が氷解するのを感じながらも思っていた。でも、それなりに離れた場所にまで音が響く程の勢いで叩きつける必要はあるのかしら、と。
そんな事を思ったとはいえ、本人も含めた自分達の舌を満足させる為に、タチバナがそこまでの努力をしてくれているという事は、アイシスにとって非常に嬉しい事であった。だが、それを素直に伝える事は、今のアイシスには妙に恥ずかしい事の様に感じられた。
「……成程。邪魔して悪かったわね、続けて頂戴」
それを気にした結果、タチバナへの返答が典型的なツンデレのキャラクターの様な口調になってしまい、アイシスは結局別の恥ずかしさを感じるのだった。そうして顔を赤くするアイシスを不思議に思いながらも、タチバナは主に言葉を返すべく口を開く。
「いえ。丁度その工程は終わった所ですので、お気になさらないで下さい」
いや、そんな都合の良い事があるだろうか。タチバナの言葉を聴き、アイシスはその様な事を思う。それは正しい考えであり、実際にタチバナはアイシスが帰って来た事でその作業を終了したのだが、その言葉に偽りが含まれているという訳ではなかった。単純に、タチバナはアイシスの帰還までの時間をその作業に充てるつもりなのであった。
「あら、そうだったのね。それじゃあ私は……あ、忘れてた」
その様な事を思ったとはいえ、タチバナ本人の言を疑う様なつもりはアイシスには毛頭無かった。その言葉から考えれば、次の工程に移るという事だろう。そう考えたアイシスは、タチバナはその姿をあまり見られたくはないだろう、という自身の推測に基づいて再びその場を離れようとするが、その際に頭から飛んでいた事を漸く思い出すのだった。