第156部分
そうして豆を集めていたアイシスであったが、その作業を楽しんでいたが故に、危うく自身の哲学に反する行為をしてしまいそうになる。次の豆を見付けたアイシスは、それを採取しようと殆ど無意識に手を伸ばすが、その時点でアイシスは既に昼食には十分であろう量の豆を入手していたのだった。
「おっと危ない。これ以上は採り過ぎになってしまうわね。自分達で栽培しているなら兎も角、自然の一部を過剰に消費しちゃうのは良くないわよね」
既の所でその事に気付いたアイシスは、安堵からかその思考をそのまま口に出して呟く。それは、見方によっては人間のエゴそのものとも言える考えではあったが、少女はそれが正しいという事を疑ってはいなかった。
昼食の材料としては十分な碧豆を入手した事で、それを拠点となる水場へと一度運ぼうと考えた時、アイシスはある事に気付く。そう言えば、先程そこから離れる時に、タチバナは自身に薪を集める旨を伝えていなかった。それを思い出した時、アイシスはタチバナが伝える事を失念したのかとも思ったが、これまでのタチバナの様子を見る限り、その可能性は著しく低いと考えられた。
それでは、何故タチバナはそれを口にしなかったのだろうか。その事について暫しの間思考した結果、アイシスには二つの可能性が考えられた。一つは、先の自分が丁度そう考えた様に、食材を集めた自身は一度拠点に戻るだろうと考え、その際に伝えようとしていたという可能性である。それはそれなりに筋の通った考えであったが、もう一方が正解である事をアイシスは願っていた。
そうである事をアイシスが願う、もう一つの可能性。それは、薪を集めるという仕事は自身の仕事であるとタチバナも認めており、言わずともそれを果たしてくれるだろうと信じてくれている、という事だった。それは、自身もタチバナの役に立てているという事を意味しており、アイシスにとって非常に喜ばしい事であった。
尤も、アイシスは自身とタチバナの様々な能力の差からその事を大袈裟に捉えているが、タチバナはアイシスに十分に助けられていると考えていた。無論、それは狼擬きの件での魔法や精神的な面の話だけではなく、旅の最中での様々な仕事に於いても同様である。つまり、アイシスが推測した可能性は後者が正解であるという事だった。
だが、その事を知る由も無いアイシスは、どちらが正解なのだろうかとそわそわしながら次に取るべき行動を考えていた。それなりの量の豆を持ちながら薪を集める事はやや手間であり、どちらにせよ一度豆を置きに行くという事が安定の選択肢である事は確かだと考えられた。だが、後者の可能性を自身が望んでいるのだから、アイシスの選択は一つであった。
幸い、アイシスは既にその行動は経験済みであり、当時苦労はしたものの、碧豆と薪を同時に集めて拠点へと運んだ事があった。その際には両者を同時進行で集めていたが、此度は既に豆を必要量入手しており、当時よりも作業が単純化しているのは確かである。また、その頃よりもアイシスは冒険者として成長しており、より効率的な方法を考える事も出来る様になっていた。
とはいえ、アイシスが採った方法は単純なものであった。既に入手していた碧豆を自身の衣服やポーチ等の空いている部分に分けて収納する事で、アイシスは自らの両手を使用可能な状態にしたのであった。誰でも最初から考え付く方法にも思えるが、採取した豆という生ものをそういった箇所に収納する事は、当時のアイシスにとっては気が引ける事だった。それは衣服や収納を汚してしまうという事に対しての抵抗であり、自身が食する物を貨幣等と同じ場所に保管する事へのものでもあった。
だが、その時から様々な経験を経た今のアイシスの考えは、当然ながら当時から変化していた。その様な細かい事を気にしていては、とても冒険の旅で生き残る事など出来ない。それが今のアイシスの考えであった。実際にはタチバナの庇護等もある為、滅多な事ではその様な事にはならないだろうが、そういった心構えの変化こそが、アイシスの冒険者としての成長を意味していた。
「ようし。それじゃあ、今日もやっていこうかしら。薪集めと言えば、このアイシス様に任せなさい」
自身を鼓舞する意味も込めてそんな事を呟くが、実際にそう思う程にアイシスはこの仕事に誇りを持っていた。たとえそれが単純な時間短縮の為であったとしても、タチバナに任された仕事であるというだけで、アイシスにとってはそうなるに十分な理由であった。そして、それはアイシスにとってのタチバナが、それ程に偉大で尊敬に値する存在であるという事も表していた。
だが、アイシスが薪集めという仕事にそれ程の誇りを持っているという事など、無論タチバナは知る由も無かった。それ故に、主にその様な単純な仕事を押し付けている事を、タチバナは些か心苦しく思わない事もなかった。しかし、それは既に限りなく小さくなっていた。
人の論理的な思考は兎も角、その感情を把握する事は得意ではない。そう考えているタチバナであっても、薪を集めて帰って来たアイシスの表情が負の感情を宿していないものである事は、薄々と理解してきているのであった。