第154部分
タチバナの言葉で我に返ったアイシスであったが、その頃には既に自身の胃に水が溜まっている事を感じていた。しまった。アイシスはそう思ったが、覆水、ならぬ腹水盆に返らずとはこの事であり、それを排除する方法は時間と自身の身体に任せる事以外には存在しなかった。
「……ええ。勿論分かっているわ。今日はこの辺りでお昼にするのよね?」
時には欺瞞も必要である。少し前の経験でその事を知ったアイシスは此処でもそれを行使するが、今がその時でない事は薄々と理解していた。だが、タチバナからの信用を損ねぬ為には、そうすべきだという気もしていた。
「はい。それと、新鮮な水を使用したい業務も少々溜まっておりますので、一刻も早く先に進みたいと思われているかもしれませんが、その為の時間も少し頂きたく存じます」
タチバナはアイシスにしては珍しい小さな嘘の事は気にせず、此方も珍しく主への願い事を口にする。原則的にはアイシスの意思を優先するという姿勢は変わっていないが、今後の旅を円滑にする為、引いてはアイシスの意思を叶える為にも、そろそろ様々な雑事を片付ける必要がある事をタチバナは感じていたのだった。
「え? 勿論良いわよ。貴方がそれを必要と思うなら、別に此処で一泊しても構わない位にはね。だって、それが『私達が一刻も早く進む』という事でしょう」
先の欺瞞をタチバナが特に気にしていない事に安堵したアイシスは、タチバナの言葉に対して自身の素直な考えを伝える。やや台詞染みた言葉ではあるものの、今度のアイシスの言葉には嘘も欺瞞も一切含まれてはいなかった。
「……ありがとうございます。そう仰って頂けるのであれば、暫し此処で足を止める事に致しましょう。無論、そのまま一泊をするという様な事はございませんが、手を拭く事等に使用する布の洗濯も致しますので、それが乾くまでの時間は此処に留まる必要がございます。幸い、本日も晴天に恵まれましたので、それ程長い時間は掛からないかと思われます」
さも当然の様にそう言うアイシスにタチバナは少しだけ言葉を失うが、直ぐにその意思を汲んだ今後の展望を組み立てると、それを主とも共有すべくアイシスへと伝える。アイシスは知るべくもないが、この一連の出来事で、タチバナはアイシスへの忠誠をより強固なものにしていた。
「分かったわ。未だお昼には少し早い……と思うから、その間に辺りを見て回って来ても良いかしら。勿論、何か探して欲しい物とかがあったら遠慮なく言って頂戴」
タチバナの言葉を聴き終えたアイシスが言う。朝食に果物しか摂取していない為、既に若干の空腹を抱えていたアイシスではあったが、太陽の位置等から冷静に状況を判断していた。尤も、昼食を後に回そうと思った一番の理由は、その間にまた新鮮な食材を得る事が出来るかもしれないというものであったのだが。アイシスはそれを表には出していないつもりであったが、実際にはしっかりと言葉にも影響を及ぼしていた。
「……かしこまりました。それでは、無理にそれを探す必要はありませんが、散策の最中に何か食料となりそうな物を見かけましたら、危険を冒さない範囲で採取して来て頂けると有難く存じます。私の方も、仕事をこなしながら周囲の気配を探り、それらしき物を探しておきますので」
アイシスが隠したつもりの意図を読み取った訳ではなかったが、タチバナはそれに沿った仕事をアイシスに依頼する。その際に少々の間が空いたのは、タチバナが既にアイシス以上の空腹を感じており、最初に昼食を済ませる事を考えていた為であったが、タチバナはそれをその僅かな間以外、一切表に出す事は無かった。
「分かったわ。それじゃあ、早速行ってくるから、悪いけど洗濯とかはよろしく頼むわね」
タチバナの依頼に対し、アイシスはそれを快く引き受ける。これまでもアイシスはそうしてきたが、此度は食欲がそれを更に後押しした事は否めなかった。その際、タチバナに雑用を任せる事に対する謝意も伝えはしたが、アイシスはその事を言葉程には悪く思わなくなっていた。無論、それはタチバナにそうさせる事が当然だと思う様になった訳ではなく、タチバナ本人がそれを望んでいる事を理解した為であった。
「かしこまりました。それでは行ってらっしゃいませ。申し訳ありませんが、食材集めの件もよろしくお願い致します」
「ええ、任せて」
そのタチバナの言葉に対し、アイシスは手を挙げてそう答えるとその場を後にする。食べられる食材を見分ける自信はアイシスには無かったが、タチバナに頼まれたのはあくまでも「食料となりそうな物」の採取であるとアイシスは認識していた。それは屁理屈染みた考えではあったが、正確にタチバナの意図を認識しているものでもあった。
事実、タチバナがアイシスにそう依頼したのは、アイシスには野外での可食物を判別する知識は無いだろうという推測に基づいての事だった。そして、それが分かっているにもかかわらず、タチバナが敢えてアイシスに曖昧な依頼をしたのは、タチバナ自身もこの辺りの動植物の分布までは正確に把握していない為であった。アイシス達がこの旅に出て未だ数日の事であったが、二人は既にその様な未踏の地に足を踏み入れつつあるのだった。