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152/752

第152部分

 やるべき事は決まったアイシスだったが、タチバナの態度から恐らくは安全だと分かっていても、いざとなると何となく緊張を覚えてしまうのであった。それでも意を決して自らの右手側に重心を傾けると、レイピアの柄に右手を添えながら身を隠している木の向こう側を覗き込む。


 そうしたアイシスの視界に入ったのは、何の変哲もない小さな湧き水だった。その周囲には小鬼等の魔物も、栗鼠等の野生動物も居らず、アイシスは安堵と若干の落胆を同時に覚えて息を深く吐き出す。そして右手をレイピアの柄から下ろすと、報告をすべきである事に気付いて口を開く。


「水場の周囲には特に何も居ない様ね。恐らくは安全……だと思うわ」


 自身の目には安全としか見えないが、周囲には自らがそうしていた様に隠れる事が出来そうな場所も多くあり、そこに何かが潜んでいるかは今の自分では分からない。そう思ったアイシスは、断言を避けた形でタチバナへと報告する。


「かしこまりました。初めての偵察行動、お疲れ様でございます。少々の難点は見受けられましたが、概ね良い安全確認であったかと思われます。その難点ですが――」


「ちょっと待ってタチバナ。悪いけどその話は後にしてくれる?」


 アイシスの報告を受けたタチバナが、自身が観察していたアイシスの一連の行動の評価を話そうとするが、それをアイシスが遮る。それはタチバナにとっては意外な行動ではあったが、主の言葉に素直に従って口を閉じる。自身の話が遮られた事をタチバナは気にしていなかったが、アイシスがそうする程の何かを自らが見落としている事は、タチバナにとっては大いに気にすべき事であった。


「あ、別にその話に興味が無いとかいう訳ではないのよ? ただ、少し喉が渇いちゃって。折角水場を見付けたのだから、話はそっちに移動してからにしましょう」


 殆ど間を置かずにアイシスが話を続けると、タチバナは自身の配慮不足に気付く。此処までの道中では適宜水分補給を挟んではいたが、タチバナが水音に気付く少し前からはその様な暇は無かった。特殊とも言える肉体と精神を持つタチバナは兎も角、冒険の初心者であるアイシスは直前の任務の緊張感もあり、そろそろ喉の渇きを顕著に感じ始めていたのであった。


「これは、私の配慮不足でした。申し訳ございません。それでは仰る通り、先ずは水場の方へと移動致しましょう。その辺りは茂みが深いので、少々迂回して参りましょうか」


 自身の身体が特別な事は重々承知しているタチバナであったが、少し気を抜けば、やはり人間として自身を基準に物事を考えてしまう事は否めなかった。その事を素直に謝罪し、アイシスの言葉への同意も示すと、タチバナは水場までの道のりを助言する。無論、タチバナ自身にとってはその茂みを跳び越す事は容易ではあったが、アイシスに無理をさせるつもりはタチバナには毛頭無かった。


「気にしないで。貴方はそうではなかった、というだけの事でしょう。それより、この茂みだけど……」


 タチバナの言葉を受けたアイシスはそう言って茂みの方を振り向くと、数歩後ろに下がる。目の前の茂みは自身の腰以上の高さがあり、それなりの幅員も持っている。これまで通りの自分であれば、タチバナの言う通り、無理をせず迂回する所であっただろう。その様に考えるアイシスだったが、同時に確信に近い思いを持っていた。でも、何故だろう……跳べそうな気がする。


「こうした方が早いんじゃ、ないかしら!」


 アイシスはそう言って軽く助走を付けると、タチバナが止めるよりも速く地面を思い切り踏み切る。これまでの生涯で初めての動作にもかかわらず、アイシスは自身が思う通りに高く飛び上がっていた。気持ち良い。着地までの僅かな間であったが、アイシスは全身で風を受けながら、何とも言えない浮遊感の様な感覚を楽しむのであった。


 タチバナはアイシスの突然の行動に驚きながらも、その見事な跳躍に感心していた。尤も、アイシスの現在の身体能力であれば、無駄の無い方法を用いさえすれば、その茂みを跳び越せる事はタチバナには分かっていた。だが、その為の訓練を積みもせずにそれを行い、そして無事に成功させた事はタチバナにとっても瞠目に値する事だった。


 とはいえ、タチバナの目線で言えば、アイシスが自身の助言を無視して無駄な危険を冒した行動をしたのは事実であった。その上、水場の安全確認の際に放っていたアイシスの分の荷物も、茂みの此方側に残されたままである。それらの事に本気で憤る様なタチバナではなかったが、若干の思う所がある事は否めなかった。


「ああ、高く跳ぶのってこんなに気持ちが良い事なのね。おーい、タチバナも早く来なさいよう」


 丁度その様な時に、アイシスが茂みの向こうからタチバナへと無邪気にそう呼びかける。それはアイシスが自身の荷物の存在を忘れていたが故の言葉ではあったが、それを耳にしたタチバナはその生涯でも初めての精神状態へと入っていた。


 タチバナは放られていたアイシスの分の荷物を拾うと、両腕に二つの荷物を抱えたままゆっくりと茂みの前まで歩いて行く。それを見て荷物の事を思い出したアイシスが、そんなに近付いたら助走も付けられないのでは、と思った時だった。タチバナはその場で地面を強く踏み切ると、荷物を抱えたまま悠々と茂みを跳び越えるのであった。

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