第151部分
満更でもない気分でタチバナの後に付いて荒れ野を行くアイシスだったが、以前に似た様な事をした際よりも大分楽に進む事が出来ていた。その最大の理由はタチバナがその時よりも速度を緩めているという事ではあったが、アイシスは自身が野を歩く事に以前よりは慣れてきている様に感じていた。
一方で先を行くタチバナは、以前と同様に後ろのアイシスの気配を感じるだけではなく、その速度の変化や息遣い等にまで気を配っていた。その為にアイシスが想定よりも余力を持っている事に気付いたタチバナだったが、敢えて速度を上げる事はしなかった。別にそこまで先を急ぐ旅路ではないのだから、時には少し足を緩めるのも悪くはない。そんな事を思う自身に対し軽く笑みを浮かべつつ、タチバナは水音の発生源の方向へ歩を進めるのであった。
「概ね到着致しましたので、一度足を止めましょう。あちらに大きな木が見えるかと思いますが、その木の向こうに何らかの水源……音から推測する限り、恐らくは湧き水が在ると思われます」
やがて、それなりに立派に育った一本の木が見える辺りに辿り着いた時、タチバナは足を止めてそう口にする。それならば、何故此処で足を止めるのだろうか。当然アイシスはそう思ったが、過去の経験から直ぐにその理由に思い当たる。また、小鬼等が居るのかもしれない。そう考えたアイシスだったが、木の付近にはそれなりの高さの茂みがある為、今の位置からではその先の様子を窺う事は出来なかった。それでも背伸びをして茂みの向こう側を見ようとしているアイシスの姿を見て、タチバナはある事を思い付く。
「しかし、先日の様に魔物が陣取っている可能性もございます。その為、先に水場が安全であるかを確認したい所ですが、この位置からでは水場の様子を窺う事は出来ません。そこで、折角ですので、今回はその役目をお嬢様にやって頂きたく存じます」
「……え?」
タチバナの言葉をうんうんと頷きながら聴いていたアイシスであったが、最後の一言には思わず自身の耳を疑う。そんな危険な可能性のある行為を、何故私に――。アイシスはその様な事を思うが、その途中で真実に気が付く。本当に危険があるのであれば、タチバナがそれを自身にさせる筈が無い。そう考えたアイシスの思考は、直ぐにその意図の推測の方へと移っていった。
成程、そういう事か。アイシスはそう時間を掛ける事もなくその答えに辿り着くと、同時に嬉しさを感じていた。冒険者として生きるのであれば、遮蔽物に隠れて先の様子を窺うという技術が活きる場面は少なくはない。現状ではその役目はタチバナが果たしてくれているが、自身でもそれが出来る様になるに越した事はない。
無論、将来的にもタチバナと離れるつもりなどは毛頭無いが、いずれ自身がタチバナと肩を並べる……とは言わずとも、その庇護が不要な程の実力を手にすれば、一時的に離れて行動する様な事はあるかもしれない。その様な可能性を、タチバナも考えてくれたという事だろう。
「無論、無理にとは申しません。もし気が向かないのであれば私が確認致しますので、その場合は気にせずに仰って下さい」
思考を続けていたアイシスにタチバナがそう声を掛けるが、それが答えを急かしている訳でも、自身の答えを誘導しようとしている訳でもない事を、アイシスは何故か自然と理解する事が出来ていた。事実、タチバナはアイシスの長い思考を悩んでいるのだと認識し、自身の言葉になど無理に従う必要は無いという事をアイシスに伝える為に声を掛けたのであった。
「いえ。答えを待たせてしまった様だけど、勿論私がやるから大丈夫よ」
タチバナの言葉から、自身の思考に思った以上の時間が掛かっていた事を察し、アイシスがはっきりとした声で言う。本当は謝罪したい気持ちが無い事もなかったが、それは逆に気を遣わせてしまうであろう事も分かっていた。
「かしこまりました。それでは、よろしくお願い致します」
タチバナがそう言うと、アイシスはゆっくりとした足取りで件の木の方へと歩き出す。足音をなるべく出さない様に。そう考えたアイシスの足取りは遅く、また奇妙にも思える様なものではあったが、その意図を察したタチバナは黙したままそれを見守っていた。
木までの距離がある程度縮まると、アイシスはその時点で背中を木の方へ向け、その状態で後ろの様子を窺いながら木の方へと歩を進める。それは少女がかつて見た映像作品に於いて、建物の陰から様子を窺うシーンをイメージしての行動であったが、別に隠れる物の場所に辿り着く前に後ろを向く必要は無かった。その為、それは先程よりも更に奇妙な行動である様にタチバナの目には映ったが、その意図もタチバナは概ね察する事が出来ていた。
そうして妙な移動の仕方をしつつも、アイシスは件の木に背中を預ける事に成功する。後は、此処から振り向く様にして顔を出せば良い。そう思ったアイシスだったが、そこである迷いが生じる。どちら側から顔を出せば……。そう考えたアイシスであったが、その答えは直ぐに出る。自身の左腰に愛剣の鞘があるのだから、いざという時にそれを抜ける方から様子を窺うべきである。