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第149部分

 それどころか、既に全ての荷物が大小二つの風呂敷包みに纏められており、アイシスは改めてタチバナの仕事の速さに感謝と畏敬の念を抱く。自分が余計な思考をしがちな事もあるにせよ、毎度気が付けば準備や片付けが済んでいるという事は、正直に言えばアイシスにとって非常に有難い事であった。


「あ、そうだ。タチバナ、これをお願い」


 そこでふと大切な事を思い出したアイシスが、ポーチに仕舞っていたリボンを取り出しながら言う。毎日があまりに濃い出来事の連続であるとはいえ、こうも毎回出発の直前になって漸く思い出す様では、折角プレゼントしてくれたタチバナに申し訳が無い。そんな事を思うアイシスであったが、それは杞憂でしかなかった。


「かしこまりました。直ぐに参りますので、座ってお待ち下さい」


 そう答えるタチバナにとって、アイシスがそのリボンを身に付ける事に対する正の感情は存在しても、そうしない事によるアイシスへの負の感情は存在しなかった。寧ろ、あの大きな白いリボンはアイシスの容姿に対して幼過ぎる印象を与える為、やはり気に入らなかったのかもしれない。という様な無用な心配をタチバナも抱えているのだった。


「ええ」


 アイシスはそう短く答えると、自分から一番近い石に腰掛け、伸ばしたリボンを持った両手をその腿に置く。それからタチバナが来るまでのほんの僅かな時間であったが、その身に感じる穏やかな陽光とそよ風を、アイシスは目を閉じて全身で楽しむのであった。


「それでは、失礼致します」


 そのアイシスの様子をやや不思議に思いながらも、タチバナは今朝も座っているアイシスの後ろに立つと、先ずは櫛を取り出してその髪を梳かし始める。この旅を始めて以来、既に結構な期間を髪を洗えずに過ごしている事は、名家の令嬢として生まれ育ったアイシスにはさぞ辛い事だろう。そうタチバナには思えたが、その問答は先日に既に済ませていた。本人が改めてそれを口にしていない以上、自分から言い出すべきではない。そう考えたタチバナは、黙したまま主の髪を梳かしていくのであった。


 その結果、最終的にリボンがアイシスの頭を彩るまでの間、二人は一切の言葉を発する事は無かったが、その沈黙がアイシスには心地良かった。髪を梳かされる感覚や肌に感じる日差しの暖かさ、そして何処からか聞こえる小鳥の囀りや虫の声。それらがよりはっきりと感じられる時間は、アイシスにとってタチバナとの楽しい会話とはまた別の喜びがあるものであった。

 

 何日も洗っていない自身の髪を触らせる事への抵抗が無い訳ではなかったが、タチバナが手袋を着けている事と、その割にはそれ程自身の髪や身体が汚れている様には感じない事は、それを弱めるのに十分な理由となっていた。


 一方のタチバナにとっても、その時間は悪いものではなかった。アイシスや一部の相手との会話はタチバナも嫌いではなかったが、本質的にはタチバナは静寂を好む性質である。それ故に、沈黙がどれ程長く続こうとも、タチバナにとっては苦ではない。その上で、自らの意思で主と仰ぐ事を決めた相手の為に何かをするという時間は、タチバナにとっては最も望むべきものの一つであった。


「はい。これでよろしいかと存じます」


 タチバナがそう言ってその手を離すと、アイシスは自身の頭部に若干の違和感と重さを感じる。だが、それらはアイシスにとって嫌なものではなく、寧ろその逆であった。自身の新たなトレードマークとなるべき、タチバナからの贈り物である大きな白いリボンが、自身の頭を可愛く飾っている証拠である感覚。それを感じるだけでも、アイシスは内側から溢れる喜びを抑え切れなかった。


「ええ。ありがとう、タチバナ」


 そう口にした言葉にもそれが滲み出ており、弾む様な声が辺りを賑わせる。ただそれだけの事であったが、それはタチバナの先程の心配を解消させるのに十分な出来事だった。自分の方こそ礼を言いたい位なタチバナであったが、それを口にしてもアイシスには何の事だか分からないのは明白である。代わりに何を言うべきかを考えるが、良い案は中々出て来なかった。


「……いえ。それでは、直ぐに出発すると致しますか?」


 少々の間を空けてタチバナが口にしたのは、主の礼に対する最低限の返答と出発への意思の確認だった。あまりにも事務的な発言だったかもしれない。発言後にタチバナはそんな事を考えていたが、それは以前の自身からは考えられない事だった。自身の発言を後悔する様な事も、それが事務的である事を気にする様な事も、かつての自分ではありえなかった事だろう。そう思いながらも、タチバナはその変化が悪い事だとは感じなかった。


「そうね。結局昨日は新しい水場も見つかっていないし、北上も未だ終わっていないからね。ぐずぐずしている時間が勿体ないから、早速出発しましょう」


 相変わらずの弾んだ声でアイシスが答える。少々はしゃぎ過ぎているかもしれない。傍からはそうとも思えていた主の口から出たのは、意外にも現状を正確に把握した言葉であった。主を侮ってしまった事にタチバナは多少なり罪悪感を覚えるが、それを謝罪したとしてもアイシスには何の事かは分からないし、またそれを喜ぶとも思えなかった。結果として、タチバナが発したのはただ一言だった。


「かしこまりました」

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